17世紀の追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 01:49 UTC 版)
1620年代になるとカトリックの僧職者によって、ポーランドのアリウス派の立場は急速に悪化し始めた。1628年、帝国の公認宗派をカトリックと指定し、ソッツィーニ主義は異端とされ、1638年には教会、学校、印刷所が閉鎖された。ラクフ大学の所有者は大学の印刷機で『悪を広めた』と告発された。新しいポーランド国王ジグムント3世ワーザはポーランド兄弟団の敵だった。その後継者ヤン2世カジミエフ・ワーザはカトリック教会を後押しした。 ラクフ大学の学生が十字架に石をぶつける事件が発生すると、イエズス会士に告発され、1638年には領主も断罪され、ラクフの街は混乱で灰燼に帰した。ソッツィーニ派への迫害は続き、1658年、ポーランド議会はソッツィーニ派のメンバーに3年以内の国外退去を布告した。信者の多くはオランダへ亡命し、外にシレジアやスロバキアへ移動し、そこで出版活動を続けた。トランシルバニアでは18世紀初頭まで教会が機能して居た。集会では賛美歌を歌い、説教を聴き、教えを説明した教義問答書から学んだ。
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