17世紀の街の様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 03:10 UTC 版)
かつての伯の城砦跡に建てられた市教会と大きなマルクト広場が街の中心を形成していた。市門はこの中心からそれぞれほぼ同じ距離にあった。この防御を固めた街の平面図は、ほぼ中央で交差する2本の通り沿いに形成されていた。この2本の通りにはそれぞれ市門が設けられていた。最も重要な建物は、1519年に建設された選帝侯の城館で、この城は同時に都市防衛施設の一部となっていた。4つの市門にはそれぞれ紋章が掲げられていた。市場の開催日や特別な機会には、門、教会塔、市庁舎に遠くからも見えるように旗が掲揚された。門の近くでは多くの通りや小道が合流しており、何本かの通りは街を通り抜け、素早い往来を保証されていた。シュタイナー通りなどいくつかの通りは舗装されていた。 ヘルヴェークの交差点のエンゼ側には、民衆が「Lawrakerk」と呼ぶ聖母教会があった。この建物の近くにはおそらくダンク修道院が存在した。この修道院は1563年に「leven Frouwen Kerck」という表記で初めて文献で確認できるが、教会自体はこれよりもかなり古い。教会は大きく、美しく改築された。 1661年の巡礼図には、中に鐘が吊り下げられた塔が描かれている。1629年に聖ウルズラが守護聖人とされ、パーダーボルンで購入されたピエタ像が広場に設置された。南側の付属の建物は巡礼者や旅人に、保護や休憩の機会を提供した。これを解体する際、ケルン大司教は、この場所に聖人像を祀る礼拝堂を建設するよう命じた。市は「精神活動に適した」礼拝堂を建設した。 ヘルヴェークからシュタイナー門に至る通りは「シュタイナーシュタインヴェーク」と呼ばれ、「シュテンクーレン」という大きな採石場に通じていた。クロイツカンプにはシュタイナーホーフの古い集会広場があった。この広場は公共の空き地とされ、十字架とベンチが設けられていた。 ヘルヴェーク沿いの通行遮断器の近くに監視小屋があった。それはここを通る商人・運輸業者から通行税を徴収する場所であった。その西側には1311年に建造された礼拝堂を持つ「アントニウスの庵」があった。ここに住む隠者は寝室と食事を提供していた。隠者はビールを醸造し、街の家畜のための飼料を集めた。 ヴィッケダー通りとヘルヴェークとの角に1935年に十字架が建てられた。これは聖像を祀った祠を記念するものであった。1667年の「聖母の訪問のパレード」の変更に関する記録は以下のように記している: 「巡礼はアントニウスの庵から聖ゲオルギー礼拝堂へ進み、さらに700歩。そこで同じように短い祈祷を唱え、貧しい病人やレプラ患者に施しを与える。」この礼拝堂は老人施療院に属していた。施療院は病気の旅人を手当てするために、1330年に設けられた。その後この建物はハンセン病患者や他の病人の住まいとして利用された。敷地内には、多目的に利用される建物や、洗濯小屋、庭、墓地、泉があり、地所は壁で囲まれていた。礼拝堂の塔からはヘルヴェークの旅人を観察することができた。リーベフラウエン通りの外塁前にはブドウ畑があったが、ワインの品質については伝えられていない。ブドウ栽培はおそらく14世紀後半に遡る。その頃は穏やかな気候であった。ハウプト通りには主に職人、運送業者、商人、宿屋、飲食店が店や住居を構えていた。街の名士や城吏(主に製塩業者の一族であった)もこの辺りに住んでいた。後に製塩業者は主にザルツプラッツや郊外に移り住んだ。内市街よりも人が少なく、火災の危険性が低いためである。城吏もそれと同じようであった。パン屋はベッカー通りで営業していた。革なめし職人、ビール醸造業者、染色職人、織物職人は、水辺に集まっていた。 マルクト広場の中央にはペテロの像がある泉が設けられていた。さらし柱は、重い刑罰を受けた罪人をさらし者にするために用いられた。ゾーストの物と似た刑具のつるし刑台は現在のザントガッセの池の畔にあった。いくつかの小売商店がマルクト広場を縁取っていた。楼門がマルクト広場と教会広場とを分けていた。ケルバーマルクトに面した聖ラウレンティウスと聖エリーザベトの礼拝堂を持つ病院は1320年に初めて記録されており、1961年に取り壊された。その場所には、2006年までフィッカーマン社の社屋があった。病院の近くにベギン会の会館があり、信仰心の厚い女性住民たちが女性宗教団体を形成していた。そこでの仕事はロウソク作りであった。この建物は20世紀末に取り壊された。聖ゲオルク礼拝堂と固有の墓地を持つ老人施療院および、宿舎と礼拝堂を持つアントニウスの庵は市の防衛施設の外側のヘルヴェーク沿いにあった。 ハールシュトラングからの小川はいずれも市街地に向かって流れており、こうした豊かな水源のために洪水が繰り返し起こった。洪水から護るために住宅地の周辺には水路システムが設けられており、効率的な排水がなされ、同時に雑用水や消火用水の水源にもなっていた。この水は、市の周囲にめぐらされた市の濠や大きな池、ザルツバッハ川に流れ込んでいた。飲用水を確保するために、170か所の泉が設けられていた。各戸に固有の泉や井戸はなかったため、泉の水を管理する共同体が形成されていた。市内には池や家畜用の水飲み場があり、消火用水や家畜の飲み水として利用されていた。市壁外にも池や家畜用水飲み場があった。市は水車1基と風車2基を運用していた。このうち1基が現存しており、保護文化財に指定されている。 住民の食糧を確保するために、市は様々な建物に食料を保存していた。これは、特に戦争時の包囲戦や凶作の時には重要であった。いくつかの大きな倉庫がこの目的のために建造された。穀物は市庁舎や教会の屋根裏あるいは聖十字架塔に保管された。その他の物資保管は住民により菜園や果樹園の施設で行われた。城館の兵士も独自の菜園を有していた。土地は通常柵、壁、あるいは生け垣で囲まれていた。こうした壁のいくつかは市内に現存している。 市は、市壁の外に「フェーデン (ドイツ語: Vöhden)」と呼ばれる耕作地を有していた。この土地は家畜の牧草地・放牧地として住民に利用されていた。現在も当時の用途にちなんでゲンゼフェーデ (ドイツ語: Gänse = ガチョウの複数形)と呼ばれている。聖ゼバスティアヌスおよび聖ファービアン射撃兄弟団ヴェルルの農場管理者によって管理されていたフェーデンは分割され、複数の管理者によって運営された。旧メルスター門の向かい側にあったゲンスフェーデはメルスター農場の Thyggeplatz でもあった。ここには裁判所もあった。1594年の文書にその様子が記述されている。この場所には古いしきたりに従って、贖罪の十字架が設けられていた。ゲンゼフェーデ礼拝堂は、当時のパレードにおける4つの主要な経由地の1つであった。創建したのは聖堂参事会員で男爵のヨハン・ハインリヒ・フォン・ゲルツェン(フォン・ジンツィヒ)であった。礼拝堂の西側面に彼の紋章が掲げられている。 ザルツプラッツは製塩のための重要な場所であった。発掘調査の結果その起源はハルシュタット時代にまで遡る。塩は、自家用だけでなく、集落外との交易に用いられた。製塩の敷地は市域の北西部ほぼ全域を占めた。17世紀まで塩水は市壁内で採取されたのだが、その後市壁外の現在のクアガルテン周辺でも採取された。塩水はいくつかの煮沸所に運ばれ、枝条架装置の壁面を流れ落ち、水が蒸発する。残留物は大きな煮沸釜で煮沸される。かつては20軒の製塩業者が煮沸する権利を有しており、それぞれの割り当て分の煮沸作業を行っていた。このためザルツプラッツには数多くの枝条架装置、煮沸小屋、保存・乾燥小屋などが設けられていた。最大の泉ミヒャエリスブルンネンがこの敷地の最も高い辺りにあった。この泉には木製の樋が取り付けられていた。この他ザルツプラッツにはザルツバッハの石炭および資材倉庫の搾油水車、納屋、製塩労働者のための住居といった建物があった。塩の生産は3月から12月まで行われ、それ以外の月には必要な保守作業が行われた。ザルツプラッツは市壁で護られておらず、防御柵で他の市域と隔てられていた。乗り物は遮断機を通って行き来していた。 市内の通りは一部しか舗装されておらず、他の部分は砂利や砂が盛られ、灰や板敷きの箇所もあった。他の通りは排水溝が設けられているだけで、雨天には泥だらけの状態となった。この集落の地理的好条件によって溢れた水による不利は比較的早く修復された。この頃、洪水が何度も起こり、家畜が溺死したり、耕作地が壊滅したりすることもあった。同時にネズミの害が起こり、ネコやイヌを飼うといった対策はほとんど成果を上げなかった。これにより食糧不足が続いた。
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