17世紀の危機と植民地の反動
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「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「17世紀の危機と植民地の反動」の解説
17世紀半ばのカリブ海は再度、遥か離れたヨーロッパの出来事で形作られた。オランダ、フランス、スペインおよび神聖ローマにとって、ヨーロッパ最後の大宗教戦争である三十年戦争がドイツで戦われており、飢饉、疫病の発生で悪化し、飢えのためにドイツ人口の3分の1ないし2分の1が殺された。イングランドはヨーロッパ大陸の戦争に巻き込まれることを避けていたが、破滅的なイングランド内戦の犠牲となり、短期間だが残忍な護民官オリバー・クロムウェルとその円頂党軍のピューリタン軍独裁(1649年-1660年)になった。ヨーロッパ列強の中で、スペインは三十年戦争が終わった時に経済的にも軍事的にも最悪の状態にあった。17世紀半ばの経済状態はお粗末なものだったので、フェリペ4世(在位1625年-1665年)のハプスブルク朝の破産と実効の無い政府に対して大きな反乱が始まり、スペイン王室による血なまぐさい報復でのみ収拾されることになった。このことであわれなフェリペ4世をより人気ある者にはしなかった。 旧世界の災難は新世界における機会を育てた。スペイン帝国の植民地は、スペイン王国の多くの苦しみ故に17世紀半ばから全く無視されていた。略奪者や私掠者がヨーロッパでの長い戦争の後で経験を積み、ほとんど防御の無いスペイン開拓地を容易に略奪し、占有した。母国の政府は国内の心配事に掛かりきりで新世界の植民地に関心が向けられず、ほとんど干渉できなかった。スペイン以外の国の植民地はカリブ海で成長し拡大しており、ヨーロッパが混乱し経済機会が無くなったことから逃れてきた移民の増加で加速された。新世界に入植した新移民の大半がプランテーション経済を拡張した一方で、海賊の生活を選んだ者もいた。一方オランダは1648年のヴェストファーレン条約がハプスブルク朝との八十年戦争(1568年-1648年)を終わらせたときに、遂にスペインからの独立を果たし、新しい植民地によって必要とされるヨーロッパ製品を運ぶという幸運を掴んだ。友好的貿易は私掠船ほど利益は無かったが、安全な事業だった。 17世紀後半までに、バルバドスはイギリス領西インド諸島の非公式首都になり、その後はジャマイカがこれに代わった。バルバドスはこの時代の商人の夢の港だった。ヨーロッパ製品は自由に手に入り、島のサトウは高値で売れ、イギリス総督は如何なる種類の重商主義法をも強制しようとすることはほとんど無かった。セントキッツとネイビスのイギリス領植民地は経済的に強く、人口も増えており、ヨーロッパにおける砂糖需要がそのプランテーションを基盤とする経済を推進していった。イングランドはカリブ海における支配力を増し、1612年のバミューダ、1632年のアンティグア島とモントセラト、1648年のバハマ諸島のエルーセラ島など新しい島に入植した。これらの開拓地は他の全てと同様にちっぽけな社会から始まり、経済的には自立していなかった。 フランスも1634年にグアドループ、1635年に小アンティル諸島のマルティニークなど砂糖を栽培する島に新しい植民地を設立した。しかし17世紀カリブ海におけるフランスの活動の中心は、イスパニョーラ島海岸沖の要塞化された島であるトルトゥーガ島のままであり、私掠船、バッカニア、まさに海賊の避難地だった。イスパニョーラ島の他部分で主要な植民地はプティゴアーベのままであり、現在のハイチ国に発展するフランスの足掛かりだった。フランスの私掠船はこの時もこのテント村をフロリダキーズにおける停泊地に使って、フロリダ海峡を通るスペイン船を襲い、またキューバ北海岸沖の海上交通路を往復して船舶を襲撃した 17世紀カリブ海におけるオランダは、キュラソー島がイギリスにとってのバルバドスに相当した。この大きく豊かで防御の整った自由港は、ヨーロッパ各国の船舶に公開され、ヨーロッパに再輸出される砂糖に手ごろな価格をつけ、その見返りにまた新世界の全ての国の植民地人に大量のヨーロッパ製品を販売した。オランダが支配する2つ目の自由港は1636年に開拓されたシント・ユースタティウス島で発展した。1660年代にこの島の領有をめぐってオランダとイングランドが何度も争い、島の経済と港としての望ましさを傷つけた。オランダはセント・マーチン島でも開拓地を設立し、オランダ砂糖農園主やアフリカ人奴隷労働者のもう一つの安息地となった。1648年オランダはこの繁栄する島をフランスとの分割統治に合意した。
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