17世紀の歴史とは? わかりやすく解説

17世紀の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 10:47 UTC 版)

17世紀」の記事における「17世紀の歴史」の解説

この時代ヨーロッパで小氷期による世界レベルでの寒冷化が原因17世紀の危機呼ばれる混乱生じ各国飢饉戦争内乱相次いだ。この結果イギリスでは清教徒革命名誉革命起きて議会政治が、フランスではルイ13世によって絶対王政確立された。この混乱免れたオランダ自由貿易により大い栄えたロシア帝国前身となるロシア・ツァーリ国未だ西欧化受けていなかったが、旧宗主国モンゴル帝国後継政権諸国下しつつ東方勢力伸ばし本格的にシベリア世界最大版図築いた東欧ポーランド・リトアニア共和国未だ強勢保ったが、ロシア・ツァーリ国はこの圧力次第跳ね返しウクライナを奪うことになる。やがてこの動きスウェーデンロシア挟撃によって東欧西欧ロシア従属的な地位転落していく流れ生むヨーロッパから現在における北アメリカ大陸への永久移民入植したまた、西インド諸島でのプランテーション経営多く労働力を必要としたことから、北アフリカ諸地域から黒人奴隷盛んに連れて来られるようになった奴隷貿易三角貿易)。さらに、イギリス・オランダなどが東インド会社設立するなど、ヨーロッパ諸国アジア新大陸である現南北米地域との間で交易活発にした。 アジアでは西アジアトルコ)のオスマン帝国南アジアインド)のムガル帝国大帝国繁栄し後者では皇帝シャー・ジャハーン文化保護し壮麗なタージ・マハル建設された。だが、17後半オスマン帝国第二次ウィーン包囲失敗しその後に続く大トルコ戦争でもヨーロッパ諸国敗れ1699年カルロヴィッツ条約ヨーロッパ側の領土大規模割譲強いられた一方ムガル帝国皇帝アウラングゼーブのもと、それまで融和路線事実上打破する形で厳格な宗教政策取り帝国統治しようとしたが、マラーター英雄シヴァージー幾度となく抵抗された。シヴァージーの死後アウラングゼーブデカン戦争帝国最大領土実現したが、マラーター王国との泥沼の戦い入り、諸地方反乱起きるなど帝国分裂傾向隠せずにいた。 東アジアでは建州女直から出たヌルハチ女真諸国統一して後金興し次のホンタイジの代で北元征服して国号大清国(ダイチン・グルン)と改め、さらに次代順治帝内紛自壊した明を接収して元の北帰以来続いていたモンゴル高原中国本土対立する一種南北朝時代解消した大清国17世紀後半には康熙帝登場により最盛期迎えた日本では16世紀末の関ヶ原の戦い勝利した徳川家康による江戸幕府開かれ第2代将軍秀忠の頃になると鎖国政策とられるようになった。この政策は約240年渡り続くことになる。

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