シヴァージーの死後とは? わかりやすく解説

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シヴァージーの死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 10:22 UTC 版)

シヴァージー」の記事における「シヴァージーの死後」の解説

シヴァージー死に際して、後継者決定しないまま死んだため、その場にいたラージャラームが王位につくと思われた。 シヴァージーの死は、マラーター王国のみならずデカン勢力圏に持つ諸国にも大きな衝撃与えたいずれにせよムガル帝国優勢に傾いたことは間違いなくアウラングゼーブシヴァージー死に歓喜し1681年6月ラージプートとの争いを切りやめ、デカンへの出兵準備はじめた同年9月アウラングゼーブデカン地方大軍率いて南下しシヴァージーのあとを継いだサンバージー争い1686年ビジャープル王国1687年ゴールコンダ王国滅ぼし1689年にはサンバージー殺害された(デカン戦争)。 サンバージー死後、その弟ラージャラームが南インド逃げつつも、マラーター王国復興尽力し18世紀初頭になるとムガル帝国逆襲するようになった結局アウラングゼーブはシヴァージーの死後もマラーター悩まされ続け晩年には自身統治後悔しながら、1707年3月死亡し帝国はこれにより衰運をたどることとなった1708年1月マラーター王国中心にマラーター同盟結成され、王はバラモン宰相実権奪われることとなったが、1720年宰相となったバージー・ラーオ1世はまさにシヴァージー再来ともいえる人物だった。 バージー・ラーオ1世領土拡大のため、長期にわたる遠征行い、軍はデカン越えて北インド一帯支配下入れ1737年3月ムガル帝国首都デリー包囲攻撃さえするほどだった。

※この「シヴァージーの死後」の解説は、「シヴァージー」の解説の一部です。
「シヴァージーの死後」を含む「シヴァージー」の記事については、「シヴァージー」の概要を参照ください。

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