第2代将軍とは? わかりやすく解説

第2代将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:59 UTC 版)

源頼家」の記事における「第2代将軍」の解説

建久10年1199年1月13日、父・頼朝急死する頼家同月20日付け左中将となり、ついで26日付け家督相続し第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった1 - 2月頃には武士達が大勢京都上り急な政権交代乗じた都の不穏な動き警戒する態勢取られており、この間三左衛門事件発生している。 頼家家督相続して3ヶ月後の4月北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家直に訴訟裁断することは停止された。反発した頼家小笠原長経比企宗員比企時員中野能成下若近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通り許さず、またこれに手向かってならないという命令出した。また正治元年1199年7月には小笠原比企中野和田朝盛に対して安達景盛留守狙い、その愛妾召し連れて来るように命じたこの辺りの『吾妻鏡』には、頼家側近乳母一族である比企氏重用し従来習慣無視した独裁的判断行った挿話並べられている。 合議制設立から半年後の10月頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官梶原景時反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾連判状頼家提出された。頼家弁明求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉戻った景時は政務への復帰頼家願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放申し渡された。正治2年1200年1月20日失意の景時は一族率いて京都上る道中在地御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍立てようとする陰謀があると頼家報告し、他の武士たちと対決した言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家失策であると評した梶原景時の変)。 建仁元年1201年正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族建仁の乱起こして鎮圧される頼家は、捕らえられ鎌倉送られてきた城氏一族の女武者板額御前引見している。建仁2年1202年7月22日従二位叙され征夷大将軍宣下される。

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