第2代皇帝オゴデイの治世とは? わかりやすく解説

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第2代皇帝オゴデイの治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:52 UTC 版)

燕京等処行尚書省」の記事における「第2代皇帝オゴデイの治世」の解説

1229年第2代皇帝オゴデイ即位すると、即位最初の大事業として金朝への遠征が行われることが決定され、その下準備としてヒタイ漢地)で徴税挑発のための人口調査が行われることになった人口調査が行われるに当たって、「戸(家族世帯)」で数えるか「丁(成人男性)」で数えるかという議論があり、結果としてオゴデイヒタイ漢地)では「戸」を基準として、中央アジア西域)では「丁」を基準として数えるよう定めた。この時、それまでヒタイ漢地)に携わっていたヤラワチ中央アジアでの人口調査命じられたために漢地離れ、代わって現地採用官僚たる耶律楚材漢地における人口調査命じられた。 漢地における人口調査命じられ耶律楚材並行して新たな税制度の確立努め、翌1230年には十路課税所が設置され金朝行政区画由来する十路燕京路・宣徳路・西京路・太原路・平陽路真定路東平路北京路・平州路・済南路)ごとに使・副各1員を置いて徴税担当させた。このように迅速に徴税システム整備したことが評価され耶律楚材首班とする書記局オゴデイより「中書省の印」を授けられた。ただし、この「中書省」はいわゆる元朝中央政府統治機関たる中書省とは全くの別物であって、その権限限定されたものであったモンゴル帝国内におけるこの「中書省」及び耶律楚材位置づけについては諸説あるが、少なくともモンゴル帝国全体統治関与するものではなかったのは確かである。 1234年金朝が完全に滅亡すると、新領土含めた漢地における再度人口調査を行うことが決定され新たにシギ・クトクがイェケ・ジャルグチとして燕京派遣された。この時の人口調査は前回以上に大規模なものとなり、移剌買奴らが新たにジャルグチとして派遣され1235年乙未年)に人口調査完成した。この時完成した戸籍簿完成年から「乙未籍冊」の名で知られ後々まで華北一帯戸籍簿として重用された。シギ・クトクはかつて建国直後モンゴル帝国において遊牧民人口調査行っており、シギ・クトク作成した遊牧民戸籍簿(ココ・デプテル=青冊)に基づいて諸王功臣への遊牧民分配が行われている。 オゴデイの治世晩年になると耶律楚材首班とする中書省地位低下し、代わってマフムード・ヤラワチが再び中央アジアから呼び戻され、「ヒタイ諸王国のすべて」がヤラワチ委ねられた。

※この「第2代皇帝オゴデイの治世」の解説は、「燕京等処行尚書省」の解説の一部です。
「第2代皇帝オゴデイの治世」を含む「燕京等処行尚書省」の記事については、「燕京等処行尚書省」の概要を参照ください。

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