第2代皇帝オゴデイの治世
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「燕京等処行尚書省」の記事における「第2代皇帝オゴデイの治世」の解説
1229年第2代皇帝オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として金朝への遠征が行われることが決定され、その下準備としてヒタイ(漢地)で徴税・挑発のための人口調査が行われることになった。人口調査が行われるに当たって、「戸(家族世帯)」で数えるか「丁(成人男性)」で数えるかという議論があり、結果としてオゴデイはヒタイ(漢地)では「戸」を基準として、中央アジア(西域)では「丁」を基準として数えるよう定めた。この時、それまでヒタイ(漢地)に携わっていたヤラワチは中央アジアでの人口調査を命じられたために漢地を離れ、代わって現地採用官僚たる耶律楚材が漢地における人口調査を命じられた。 漢地における人口調査を命じられた耶律楚材は並行して新たな税制度の確立に努め、翌1230年には十路課税所が設置され、金朝の行政区画に由来する十路(燕京路・宣徳路・西京路・太原路・平陽路・真定路・東平路・北京路・平州路・済南路)ごとに使・副各1員を置いて徴税を担当させた。このように迅速に徴税システムを整備したことが評価され、耶律楚材を首班とする書記局はオゴデイより「中書省の印」を授けられた。ただし、この「中書省」はいわゆる元朝の中央政府統治機関たる中書省とは全くの別物であって、その権限も限定されたものであった。モンゴル帝国内におけるこの「中書省」及び耶律楚材の位置づけについては諸説あるが、少なくともモンゴル帝国全体の統治に関与するものではなかったのは確かである。 1234年に金朝が完全に滅亡すると、新領土も含めた漢地における再度の人口調査を行うことが決定され、新たにシギ・クトクがイェケ・ジャルグチとして燕京に派遣された。この時の人口調査は前回以上に大規模なものとなり、移剌買奴らが新たにジャルグチとして派遣され、1235年(乙未年)に人口調査は完成した。この時完成した戸籍簿は完成年から「乙未籍冊」の名で知られ、後々まで華北一帯の戸籍簿として重用された。シギ・クトクはかつて建国直後のモンゴル帝国において遊牧民の人口調査を行っており、シギ・クトクの作成した遊牧民の戸籍簿(ココ・デプテル=青冊)に基づいて諸王・功臣への遊牧民分配が行われている。 オゴデイの治世の晩年になると耶律楚材を首班とする中書省の地位は低下し、代わってマフムード・ヤラワチが再び中央アジアから呼び戻され、「ヒタイの諸王国のすべて」がヤラワチに委ねられた。
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