オゴデイの治世
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1229年にオゴデイが第2代モンゴル帝国皇帝として即位すると、オゴデイは旧西夏国の人材を探し求めたため、高智耀は周囲から推挙されてオゴデイの側近くに仕えるようになった。オゴデイに仕えるようになってすぐ、1229年中に高智耀は旧西夏国の声楽を取り入れるよう進言し、この進言はオゴデイによって採用された。しかし、高智耀は宮仕えを厭ったため、ほどなくして再び隠棲生活に入った。 一方、1235年のクリルタイによって、モンゴル帝国ではバトゥを主将とする西方(ルーシ・東欧)遠征とクチュを主将とする東方(南宋)遠征が決定され、その一環としてオゴデイの第2子コデンが旧西夏領を与えられて南宋侵攻の右翼軍を務めることになった。また、同年の第2回クリルタイでは駅伝制度(ジャムチ)の整備も決定され、旧西夏領ではコデンの指揮の下儒学者までもが駅伝制度整備に徴発されるようになった。このような儒学者に対する徴発を停止してほしいとの人々の依頼を受け、高智耀は直接コデンに陳情することにした。この頃、コデンは笙を木上にかけて「これを上手く吹くことができれば大いに賞賛せん」と述べて優れた吹き手を募っていた。コデンへの陳情の方法に苦慮していた高智耀はこの募集に応じ、優れた演奏を行ってコデンを喜ばせた。そこで高智耀は自らの家が代々儒学を収めていること、そのため自らも音楽に通じ楽士を複数召し抱えていることを述べ、自らの楽士をコデンに献上することを提案した。その上で、高智耀は儒学者の徴発をやめるよう陳情し、高智耀の提案に喜んだコデンはこの陳情を受け入れた。後に楽士をつれてきた高智耀に対し、コデンは官職を授けようとしたが、高智耀はやはり辞退して褒美を受け取って帰郷したという。
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オゴデイの治世
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「アブドゥッラフマーン (モンゴル帝国)」の記事における「オゴデイの治世」の解説
西域のペルシア系出身の色目人で商家の出身とされる。 『元史』巻146列伝146耶律楚材伝によると、アブドゥッラフマーンはウイグル人訳史(翻訳官)の安天合と第2代皇帝オゴデイの側近のチンカイ(鎮海)の推挙に用いられるようになったという。これより先、モンゴル帝国は河南の金朝平定によって1238年(太宗10年/戊戌)までに税収が110万両(=2万2千錠)に増加していたが、1239年(太宗11年/己亥)12月にアブドゥッラフマーンはその倍額に当たる220万両(=4万4千錠)を撲買(徴税の請負)を行うと申し出た。当然、この税収増額は民からの過酷な徴収の上に成り立っていたため、耶律楚材は声を荒げ涙ながらにアブドゥッラフマーンによる徴税を改めるよう訴えたが、オゴデイ・カアンは「試しにやらせてみよ」と述べて耶律楚材の進言を取り上げなかった。こうして、翌1240年(太宗12年/庚子)正月にアブドゥッラフマーンは「提領諸路課税所官」に任じられ、以後ヒタイ(旧金朝領華北)地方の徴税を務めるようになった。徴税額が上がったヒタイ地方(漢地)では以前にも増してウイグル商人の高利貸しが問題となり、同1240年には利子は元金を超えないようにすべしとの命が出されるに至っている。
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