オゴデイによる「丙申年分撥」
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「オゴデイによる「丙申年分撥」」の解説
1229年(己丑)にチンギスの跡を継いで即位したオゴデイは、即位後最初の大事業として金朝への第二次侵攻を行った。この侵攻を経てモンゴル帝国は華北地方を完全に制圧したものの、この頃の華北は投下領主、漢人諸侯の権益が入り乱れて混沌とした状態にあった。このような状況を打開すべくオゴデイが始めたのが、1224年に始まる華北の人口調査とその結果に基づいた領民・領地の再分配であった。この大事業の責任者に選ばれたのはかつてモンゴル高原における人口調査を行ったシギ・クトクその人で、耶律楚材ら漢地の状勢に詳しい者達が補佐に就いた。1235年(乙未)に完成した華北の戸籍は完成した年の干支から「乙未年籍」と呼ばれ、これ以後の華北統治の基本資料となった。 そして、翌1236年(丙申)には「乙未年籍」で得られた人口調査結果に基づいて諸王・功臣に領地・領民が再分配された。この政策が行われた干支から、歴史学者はこれを「(オゴデイの)丙申年分撥」と呼称する。「丙申年分撥」の最大の特徴は、あらゆる点でモンゴル高原における人口調査・領民領地の分配に基づいて行われたことであった。まず、領地の分配はモンゴル高原における領地の分配をそのまま華北に再現する形で行われた。具体的には、高原西部に領地を有する西道諸王は華北西部の山西一帯を、高原東部に領地を有する東道諸王は華北東部の山東一帯を、その中間の一帯には大ハーンに直属するノヤンたちが、それぞれ領地を与えられた。また領民の分配もモンゴル帝国建国時の領民の分配を参考に行われ、諸王にはモンゴル高原における領民の約10倍が、ノヤンには約5倍の領民がそれぞれ与えられた。 このような「丙申年分撥」の方針について、「平章政事蒙古公神道碑」(『元史』巻121列伝8クイルダル伝の原史料)は以下のような逸話を記録している。 クトク(忽都忽)は大いに漢民を割り当て、城邑を分けて功臣に封じたので、[マングト部当主モンケ・カルジャには]泰安州の民万戸が授けられ、郡王に封ぜられたことが[カアンに]報告された。カアン(帝)はマングト部に対する数が少ないのを訝しんだため、クトクは「臣は今[漢民を]分類し順序づけるに当たって、ただチンギス・カン(太祖)の旧例のみを見ています。[チンギス時代の]旧例が多ければ多く、旧例が少なければ少なく[城邑の分配を]行いました」と答えた。これに対し、カアンは「それは誤っている。旧民(=チンギス時代に分配された遊牧民)が少なくとも、戦功が多ければ[華北での分配数も]増やして2万戸を与え、他の十功臣と同じにすべきだ」と述べた。……又俾貴臣呼特呼大料漢民、分城邑、以封功臣、割泰安州民万家、封郡王、帰奏。帝問、蒙古之民何如是少。対曰「臣今差次惟是太祖之旧、旧多亦多、旧少亦少」。帝曰「不然。旧民少而戦績則多、其増為二万戸、与十功臣同」。為諸侯者民異其編。…… — 『牧庵集』巻14「平章政事蒙古公神道碑」 このように、「丙申年分撥」では原則としてチンギス時代に行われたモンゴル高原本土における遊牧民分配を基準としつつも、戦功などを加味して領民が分配された。ただし、先に述べたようにチンギス時代には既に諸王・功臣は征服地の権益(=投下領)を得ており、「丙申年分撥」は正確な人口の把握に基づく「再分配」に過ぎなかった点は注意を要する。この点において、オゴデイによる「丙申年分撥」は新たな領民領地の分配ではなく、「モンゴル支配層における似有漢民の体系的な再整理」であったと言える。 一方、帝位を巡ってトゥルイ家と対立していたオゴデイは自家の勢力を強化するため、恣意的に他家の投下領に干渉した。ジョチ家の投下領である平陽路では南宋遠征軍の後方基地という名目でオゴデイの第3子クチュのウルスを成立させ、また腹心の部下であるケレイト部のスゲを「山西大達魯花赤」すなわち山西地方全体を統括するダルガに任命するなど、山西地方の投下に対する支配を強めた。このような施策は「一族による帝国の共有支配の原則」から逸脱した行為であり、特にオゴデイ治世下で冷過されたジョチ家・トゥルイ家との遺恨を生んだ。オゴデイの死後、ジョチ家とトゥルイ家は協力してモンケを推戴し、グユクの短い治世を経て即位したモンケはオゴデイ時代の統治方針を大きく覆す施策を打ち出すこととなる。
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