チンギス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 03:39 UTC 版)
「チンカイ・バルガスン」の記事における「チンギス時代」の解説
『元史』巻120チンカイ伝によるとチンカイに城(チンカイ城)建設の命が下ったのは1212年(壬申)のことであり、建設者の名をとってチンカイ・バルガスン(バルガスンは城の意)と名付けられたという。1212年はチンギス・カンの金朝遠征真っ只中のことであったが、チンカイ城の建設は既に西方への進出を視野に入れたものであったと考えられている。実際に、モンゴルのホラズム・シャー朝征服でチンギス・カンが補給地として用いたオルホン河畔(後のカラコルム)・チンカイ城・イルティシュ河畔・カヤリクはほぼ500〜600km(当時のモンゴル軍の1カ月の行軍距離)ごとに位置しており、チンギス・カンが早い段階からかなり計画的に西進ルートを設定・整備していたことが窺える。 この頃のチンカイ城についてはほとんどの史料に言及がないが、例外的に豊富な記録を残しているのが『長春真人西遊記』である。全真教の道士であった丘処機(長春真人)はモンゴル帝国からの庇護を受けるべくチンギス・カンの下を訪れようとしたが、時にチンギス・カンは中央アジア遠征中であり、結果として丘処機は華北からサマルカンドに至る大旅行を行うことになった。この丘処機の旅程の記録を弟子の李志常が纏めたのが『長春真人西遊記』で、そこには往路と復路で2度チンカイ城を訪れたことが記されている。 (訳文)南に向い大なる峡谷を出ると、一水流が西に流れ、雑木の林が山の南側に映じ、にらが香気を発して茂っている。渓谷の路を行くこと数十里にして、北に故城址があり、 曷剌肖(ウリヤスタイ)と言う。西南行して沙漠を二十里ほど進んだが、水草は極めて乏しかった。次に始めてウイグル人が溝渠を掘って麦畑に潅漑してるるのを見た。また五、六日目に山嶺を越えて南に進み、モンゴル人の宿営に泊まった。朝早く出発したが、南の方には山脈が連なり、山嶺には雪を頂いているのが見えた。……駅伝の吏の言うところによると、この雪山の北は、田鎮海のバルガスンであると言う。バルガスンとは中国の言葉では城である。その中には倉庫があるので、また倉頭とも言う。七月二十五日、漢人の工匠たちが絡繹として迎えに来て一同歓呼して拝礼し、彩色した幟と天蓋と香花とを持続って先導した。また一人は徒単氏、他は夾谷氏と言う。金の章宗の二妃と漢の公主の母である欽聖夫人哀氏が泣いて相迎えた。……翌日、阿不翠山の北で鎮海が出迎えたのに会った。(原文)南出大峡、則一水西流、雑木叢映于水之陽、韭茂如芳草、夾道連数十里。北有故城曷剌肖、西南過沙場二十里許、水草極少、始見回紇決渠灌麦。又五六日、踰嶺而南、至蒙古営、宿拂廬。旦行、迤邐南山、望之有雪、因以詩紀其行……郵人告曰、此雪山北、是田鎮海八剌喝孫也。八剌喝孫、漢語為城。中有倉廩、故又呼曰倉頭。七月二十五日、有漢民工匠絡繹来迎、悉皆歓呼帰礼、以彩幡・華蓋・香花前導。又有章宗二妃、曰徒単氏、曰夾谷氏、及漢公主母欽聖夫人袁氏、号泣相迎、顧謂師曰……。翌日、阿不罕山北鎮海来謁。 — 『長春真人西遊記』巻上、訳文は岩村1948,39頁より引用 『長春真人西遊記』はチンカイ城の具体的な地理を記したほとんど唯一の史料と言ってよく、多くの研究者から注目されてきた。後述するように、ハルザンシレグ遺跡の発掘・調査も『長春真人西遊記』の記述を確認する形で行われている。 チンギス・カンによって中央アジアが完全にモンゴル帝国の支配下に入ると、西方遠征の補給基地として建設されたチンカイ城の存在意義は薄れ史料上に現れなくなる。チンカイ城が再び軍事・政治的重要性を高めるのは帝位継承戦争に始まるモンゴル帝国内部の混乱と、中央アジアにおけるカイドゥの自立以後のことであった。
※この「チンギス時代」の解説は、「チンカイ・バルガスン」の解説の一部です。
「チンギス時代」を含む「チンカイ・バルガスン」の記事については、「チンカイ・バルガスン」の概要を参照ください。
- チンギス時代のページへのリンク