チンギス・カン死後の変化
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「ミンガン」の記事における「チンギス・カン死後の変化」の解説
チンギス・カンの即位時(1206年)に95あった千人隊は各地の征服戦争を経て増大し、チンギス・カンが死去する際(1227年)には129を数えた。この内、諸子諸弟の相続分(28の千人隊)を除くチンギス・カンに直属する101の千人隊は末子相続の風習に従ってチンギス・カンの末子トゥルイが相続することとなっていた。 しかしチンギス・カンの死後にオゴデイ・カアンが即位すると、トゥルイがカアンを遙かに上回る軍団(=千人隊)を有することが問題視されるようになった。そこでオゴデイ・カアンは金国征服の後に征服地を分配する際、トゥルイ・ウルスの有する千人隊に二つの変更を加えた。 一つはトゥルイ家に属する千人隊をオゴデイ家に移すことであった。オゴデイ・カアンは即位するにあたってトゥルイとの関係の深い「チンギス・カンのケシク(親衛隊)」を引き継がず、101の千人隊の中から新たに1万のケシクを編制した。また、オゴデイはトゥルイ家の中から四つの千人隊を引き抜いて自らの息子コデンに与え、新たにコデン・ウルスを形成させた。この時にはチンギス・カン以来の重臣が「チンギス・カンの定めた所属はたとえカアンであっても変更できない」と抗議しようとしたことが記録されている。 もう一つはトゥルイ家に属する千人隊の内、比較的有力な遊牧集団を独立したウルスと認定することであった。丙申年(1236年)に行われた征服地である華北の分地・分民は独立したウルスの統治者(主に宗室諸王)が対象であったが、そこにはトゥルイが継承したはずの千人隊長の名も記されている。また、この時独立した千人隊は右翼(西方)よりも左翼(東方)に属するものが多く、その中でも特に有力な五つの千人隊=部族を「左手の五投下」と呼称した。右翼よりも左翼の方が独立性が高かったのは、チンギス・カンが中央アジア遠征に従事していた時に右翼の千人隊がチンギス・カンの指揮下にあったの対し、左翼の千人隊の一部はムカリ国王の下金朝攻略に参加しており、自由な行動を取ることが多かったためと推測されている。 結局、トゥルイが相続した101の千人隊(=10万1千)の内、1万がオゴデイのケシクとなり、4千がコデン・ウルスに属し、6万6千が独立したウルスを形成して、トゥルイ・ウルスには21の千人隊(2万1千)のみが残ることとなり、そしてこのトゥルイ・ウルスは旧来に比べ独立した左翼が減って右翼に偏る構成となった。左翼千人隊の独立化と右翼千人隊のトゥルイ・ウルスへの従属化はこの後も続き、以後のモンゴル帝国の政局の変化に大きな影響を与えた。
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