人材運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府、地方政府共に人材登用では能力ではなく縁者の階級が重視され高官の子弟は修養や実務を積む前から権限のある役職に就いた、またチンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に就き政治に携わる者の多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき登用されたケシクテン所属者(ケシク)からの出向であった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。 宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(駙馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。 皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲社会の元朝では能力に基づく選抜採用は必要がなく、また大量の増員があった元朝による南宋滅亡に際しても、投降した旧官吏を大量採用したため、科挙によって新たに官僚を登用する必要が存在せず、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われなかった(耶律楚材の実施した科挙によって一次登録された4000人のうち、中央高官や県長以上の官職に就いた24人などの例もなくはない)。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によって賄われていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。 このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。その結果、元朝の官吏は文官としての能力を著しく欠いた無能者が多く、汚職や悪政と搾取を繰り返す元凶となった。 貴族の家門に属さなくとも出世できた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から政商として重用され、元朝初期に高官として財務を担っていた色目人(モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々)貴族だった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じて皇帝や貴族と金銭を通じたつながりをもった彼らは財務に明るく重用された。しかし、徴税や専売税の請負いなどで度重なる臨時増税を課して過重な負担を負わせ、汚職と曲法を極めて搾取を行ったことは「税人白骨」に代表される民衆の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。 南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなかった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南家(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。 もっとも、官吏・軍人・儒戸としての出仕、縁故・推挙などによる出仕、国子監などの国の教育機関を通じた出仕、科挙及第による出仕と出仕経路の多様性をモンゴル帝国・元朝の人材登用の特徴として捉え、元代の知識人の多くは自分に有利な方法での仕官を目指したのであって、「進士及第」という社会的名誉にこだわらない限りは、どの方法でも構わなかった(科挙を受ける必然性はなかった)とする指摘もある。
※この「人材運用」の解説は、「元 (王朝)」の解説の一部です。
「人材運用」を含む「元 (王朝)」の記事については、「元 (王朝)」の概要を参照ください。
- 人材運用のページへのリンク