金の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
しかし、強勢を誇り、北方帝国として君臨し、中華王朝にも影響を及ぼした遼であったが、次第に内部分裂などから衰退の兆候を見せ、それと相対するようにして、北方の女真族が力を伸ばすようになった。流域にいて、遼に対して服属していた女真族であったが、遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。[疑問点 – ノート]そして、遂に女真族の王朝「金」を完顔阿骨打のもとに建国すると、次第に勢力圏が圧迫されるようになった。後に、北京の地が首都となるのだが、この時点で首都は会寧(上京)であり、按出虎水の河畔の現在のハルビン市阿城区にあたる[疑問点 – ノート]場所に追存在した。 この状況を知った中華王朝の北宋は、これを燕雲十六州と北京の奪回の好機ととらえ、金と盟約を結んだ。1120年に結ばれたこの条約は「海上の盟」と称され、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束[疑問点 – ノート]するものであった。この盟約で、北宋は悲願の燕雲十六州・北京奪還を自ら果たすはずだったが、北宋は攻略にてこずったために金が[疑問点 – ノート]南京を落とし、宋に割譲する、という形となった。また、金の完顔阿骨打の死後も、弟の太宗完顔呉乞買が後を継いで遼帝国との戦いを続け、1125年に逃[疑問点 – ノート]亡していた最後の遼帝国皇帝天祚帝耶律阿果を捕らえ、遼帝国を滅ぼした(しかし、後に徳宗耶律大石が西遼帝国を立て、北方王朝を中央アジアで再興した)。 これで、遼討伐の戦は終わるはずであった。しかし、北宋はこの盟約を反故する様な行動をとったため、金王朝の逆鱗に触れた。そのため、1127年に金に都の東京開封府(旧称:汴京、現在の開封市)を包囲され、陥落したのちは皇帝欽宗と上皇徽宗が北方に連れ去られる、という事件が起こる。しかし、同年高宗が南方に逃れ、宋を再興し、南宋をたてたが、二度と北京の地は取り戻すことはなかった。
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