文化的・民族的変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
金の領域からの女真族の移民が金の支配下にある華北に定住した。これらは人口の10%以下しか構成しておらず200~300万人の女真族は少数派であったが、3000万人の漢民族を支配していた。南方への金の拡大は、金を準農業部族的分散型政府から官僚制中国型王朝へと変遷させた。金朝政府は当初は女真文化の独立性を深化させると共に、中国の中央集権的皇帝官僚制を採用した。しかし帝国は徐々に華化されていった。金はやがて中国語話者の帝国となり、儒学思想が支配の正当化に用いられるようになった。 儒学に基づく国家儀礼は、熙宗の時代に採用された。金は、儒教の古典に関する科挙を、最初は一部地域で行ったが、その後帝国全土で実施した。古典をはじめとする中国文学の作品は、知識人によって女真語に翻訳され、研究されたが、金の古典文学に寄与したものは極僅かであった。また、漢字文化圏の契丹文字は、帝国の国字である女真文字の基となった。漢字・契丹文字・女真文字の3つの言語は何れも政府によって実務に用いられていた。完顔迪古乃(海陵王)は、中国名と女真名を併用していた。完顔迪古乃は積極的な女真化の顕著な開始とそれを促進する政策を実施した。完顔迪古乃は、幼少の頃から宋の外交官から文化的な影響を受けており、宋の習慣を模倣していたことから、女真族では「中国の物真似猿」とあだ名された。彼は四書五経を学び、茶を飲み、娯楽として中国将棋をしていた。彼の治世下では、金の行政の中心が会寧から北京に移された。彼は1153年に金の主都として北京を設置した。北京と開封には宮殿が建てられ、北方にあった女真族の首長の住居は破壊された。 完顔迪古乃の政治改革は、中国全土を征服し、自らを中国の皇帝として正当化したいという願望と結びついていた。しかし完顔迪古乃の暗殺により、江南制圧の見通しが立たなくなった。完顔迪古乃を廃位した世宗完顔烏禄は、中国化にはあまり積極的ではなかったため、完顔迪古乃の勅令のいくつかを取り消した。彼は女真族の同化を遅らせるために新政策を裁可した。しかし世宗の禁止令は、章宗完顔麻達葛によって廃止された。章宗は王朝の政治体制を宋朝や唐朝の政治構造に近づけるよう改革を進めた。文化や人口の変化にもかかわらず、金と宋との間の軍事的敵対関係は金の崩壊まで続いた。 江南では、宋朝の南遷は大きな人口動態の変化をもたらした。度重なる女真族の襲撃に依り臨安や建康(それぞれ現在の杭州市・南京市)に定住した北方からの難民の人口は、本来の住民の人口よりもかなり多くなった。宋朝政府は、南方から長江・淮河間の過疎地への農民の移住を奨励した。新都の臨安は、商業・文化の中心地として発展した。特に目立つ事のない中核都市から、世界有数の規模と繁栄を誇る都市へと成長したのであった。マルコ・ポーロが元代に臨安に滞在していたとき、宋代ほど豊かではなかったが、「この都市は世界のどの都市よりも大きい」と記している。華北を奪還する可能性が低くなり、更に臨安が重要な貿易都市に成長すると、臨安には帝都としての地位にふさわしいように政府の建物が増改築された。適度な大きさの王宮は、1133年には新しい屋根のついた路地が作られ、1148年には王宮の壁が拡張された。 中国文明の文化的中心地である華北の失陥で、宋朝の地域的地位は低下した。女真人の華北を征服以後、高麗は宋ではなく金を中国の正統王朝として認めた。宋は軍事的失敗により金の下位になり、「同輩の中の中国(China among equals)」になってしまった。しかし、宋朝経済は南遷後すぐに回復した。北宋の時代が終わった1127年から高宗の末期である1160年代初頭までの間に、外国貿易への課税から得られる政府の収入はほぼ倍増した。しかし復興は一様ではなく、戦争の影響を直接受けた淮河南部や湖北などの地域では、戦前の水準に戻るのに数十年を要した。幾度もの戦闘にもかかわらず、金は宋の主要な貿易相手国の一つであり続けた。金では茶や陶磁器・絹織物などの需要を満たすために宋との交易を必要とし(結果的に歳幣となった銀が宋に還流される)、宋では毛皮や馬などの外国製品の需要が衰えなかった。歴史学者の斯波義信は、宋の商業は金への歳幣として毎年献上される銀を補填するに上回るほどの利益を上げていたと考えている。 宋金戦争は、五胡の南下・安史の乱・黄巣の乱(中国語版)などの華北における幾つかの戦争のひとつである。これら混乱や異民族の南下により引き起こされた華北から江南への漢人の大移動は衣冠南渡と呼ばれる。1126年から27年にかけて、李清照を含む100万人以上が南へと逃れた。孔子の子孫である衍聖公孔端友は高宗とともに衢州に南下した一方で、弟の孔端操は曲阜に残り、金朝の衍聖公となった。また、曾子一族の一部も南宋とともに南下したが、一部は北に残った。 しかし、戦争が終わると、南宋の漢民族が金朝の支配下の華北に向かうという逆の移動もあり、江南の人口は減少し、華北の人口は増加した。
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