出自と経歴とは? わかりやすく解説

出自と経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:20 UTC 版)

スラヴ人トマス」の記事における「出自と経歴」の解説

トマス出自について明確なことはわからない11世紀の『続テオファネス年代記』はトマス歴代ビザンツ皇帝たちによって小アジア移住させられ南スラヴ人英語版)の出自であると説明し10世紀のゲネシオス(英語版)の『皇帝列伝』は彼をGouzourou湖から来たアルメニア種族トマス呼んでいる。従って彼の異名スラヴ人」はあくまで現代の呼称である。トマス家族および幼少期については、彼の両親貧しかったことと、彼が満足な教育受けていなかったこと以外何一つわかっていない。彼が反乱起こした時、50歳から60歳の間であったことから、彼は恐らく760年頃に生まれた考えられるトマスについての主たる情報源であるゲネシオス(Genesios)の『皇帝列伝』と『続テオファネス年代記』は両者とも若き日トマスについて2つ異なるバージョン説話採録している。それぞれは以下のようなのである第一説話トマス803年将軍バルダネス・トゥルクス(英語版)の部下として初め登場し、彼が反乱を起こす820年後半まで軍人としてのキャリア歩んでいた。 第二説話トマス貧し若者で、コンスタンティノープル住み着くようになり、宮廷でパトリキオス(バルダネスのことと言われる)の地位をもつ人物仕えたその後主人の妻との姦通試みたことが露見しトマスアラブ人支配下シリア英語版)へと逃亡し、そこに25年間留まった。彼はその後殺害され皇帝コンスタンティノス6世在位780年-797年)の名を騙りアラブ人支援受けて小アジア侵略したこのためトマス初期の経歴について様々な見解提案された。古典古代及びビザンツ学者ジョン・バグネル・ベリーはこの二つ説話整合させよう試みトマスアッバース朝への逃走788年頃、彼のビザンツ帝国への復帰803年以前とした。一方でロシア人学者アレクサンドル・ワシーリエフ(英語版)はこれらの記録トマスコンスタンティノス6世廃位され797年アッバース朝逃走したことをほのめかしていると解釈し、またバルダネスの反乱トマス参加していた可能性全くないとした。 ゲネシオスと『続テオファネス年代記』の筆者明らかに第二説話支持しており、ゲオルギオス・モナコス(英語版)(修道士ゲオルギオス)の年代記と『レスボス島の聖ダヴィドシメオンゲオルギオス事績Life of Saints David, Symeon, and George of Lesbos)』という9世紀記録にはこちらの版の記録しかない。にも関わらずフランスビザンツ学者ポール・ルメルル(英語版)はこれを、トマス敵対者であったミカエル2世によって後に作られ信頼できない伝承であり全く採用できないとして第一説話のみを使用している。そして現代学者大部分はルメルルの解釈に従っている。また、シニェス・コドニェルは、実際にトマスという人物二人おり、後にそれが同一人物であると見なされた結果混乱生じたという大胆な説を提唱した第一説話は、トマスがスパタリオス(英語版)(spatharios、spatharioi)として東部テマのモノストラテゴス(英語版)(monostrategos、「ただ一人将軍」、最高司令官)のバルダネス・トゥルクスに仕えていたことを伝えている。バルダネスは803年皇帝ニケフォロス1世在位802年-811年に対して反乱起こした。バルダネスの臣下にはトマス並んでアルメニア人レオン(後のレオン5世)とアモリオンの人ミカエル(後のミカエル2世)という二人の若いスパタリオイ(spatharioi)がおり、彼らは兄弟のような関係を築いていた。後世歴史伝承によれば、バルダネスが反乱を起こす前、彼は3人の若き家来Protégés)を連れて、フィロメロン近郊に住む将来予見する評判修道士訪ねたという。この修道士これから起こること、即ちバルダネスの反乱失敗するであろうこと、レオンミカエルはいずれ皇帝となるであろうこと、トマス皇帝として歓呼されるが、殺害されるであろうことを予言した。これは無論史実とは考えられない。 バルダネスが実際に反乱起こした時、彼はいかなる意味においても広範な支持を得ることに失敗したレオンミカエルはすぐに彼を見放し帝国軍営へと逃げ込んでの上司令官地位与えられた。トマスはただ一人バルダネスが降伏するまで彼への忠誠維持した。バルダネスの反乱失敗の後、トマス10年間に渡り史料から姿を消すベリートマスアラブ人の下へ(ベリー解釈従えば2回目の)逃亡した主張した。この見解はロミリー・ジェームズ・ヘラルド・ジェンキンス(英語版のような多く学者から支持されている。しかし、歴史学者ウォーレン・トレッドゴールド(英語版)は、トマスとバルダネスの関係がトマスキャリア妨げたという話の曖昧さ説明しトマス帝国内に留まっており、恐らく軍人としての職務活発に続けてもいたであろう主張する813年7月アルメニア人レオン皇帝になると素早く古い仲間たち報酬与え、彼らに軍の精鋭指揮させた。ミカエルはExcubitors(コンスタンティノープル周囲駐留する専門近衛騎兵連隊1つ)のタグマ任され、フォイデラトイ(Foederati)のトマスのトゥルマ(英語版)(tourma、師団)はテマ・アナトリコン駐留した

※この「出自と経歴」の解説は、「スラヴ人トマス」の解説の一部です。
「出自と経歴」を含む「スラヴ人トマス」の記事については、「スラヴ人トマス」の概要を参照ください。


出自と経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:16 UTC 版)

ジェニーン・ジョーンズ」の記事における「出自と経歴」の解説

ジョーンズ1950年7月13日テキサス州サンアントニオ生まれナイトクラブのオーナー夫妻養子として引き取られた。16歳時には弟がパイプ爆弾自殺し翌年養父末期癌死亡した。 彼女は高校時代恋人1968年結婚し、子どもを1人もうけた後、1974年離婚したその後1977年復縁し、さらにもう1人生まれている)。起訴直前ジョーンズ19歳看護助手再婚したが、起訴後1983年12月相手側から離婚届提出された。最初結婚の頃は美容師として働いていたが、1977年資格取得のため看護学校入学した卒業後はサンアントニオメソジスト病院、またある私立病院勤務したが、出しゃばった判断を行うなどの理由長続きしなかったという。 彼女はベア郡病院(現ユニバーシティ・ヘルス・システム(英語版))の小児集中治療室英語版)で准看護師英語版)として働き始めたが、ジョーンズ勤務中には、彼女が看護した子どもたち大勢亡くなっていた。病院訴訟起こされることを恐れジョーンズ含めた准看護師全員解雇応じるよう求め代わりに小児集中治療室スタッフ正看護師のみに変更した解雇前、ジョーンズ勤務時間は「死のシフト」、また彼女自身も「死の看護師」と呼ばれていたほどだったが、ベア郡検死医異状死に関する報告一切無かったという。1984年ジョーンズ有罪判決受けた後、ベア郡病院は彼女が勤務していた時期公式記録破棄しており、正確な被害者数分かっていない。 彼女はその後サンアントニオ程近いテキサス州カーヴィル(英語版)に移り小児科の開業病院勤めることになった。彼女はここで6人の子どもへ毒を盛ったとして罪に問われた。医師自分とジョーンズしか入ることのできない薬品庫で、穿刺の痕が残るサクシニルコリン筋弛緩剤)の瓶を見つけた中身は満量に見えたが、後の調査希釈されていたことが判明した。この脱分極筋弛緩薬は、投与する全身筋肉弛緩して心停止呼吸不全窒息引き起こすことになる。ジョーンズ自身働きについて、カーヴィルで小児集中治療室設立する助けがしたかったのだと主張した

※この「出自と経歴」の解説は、「ジェニーン・ジョーンズ」の解説の一部です。
「出自と経歴」を含む「ジェニーン・ジョーンズ」の記事については、「ジェニーン・ジョーンズ」の概要を参照ください。


出自と経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 16:03 UTC 版)

重源」の記事における「出自と経歴」の解説

紀氏出身で紀季重の子長承2年1133年)、真言宗醍醐寺入り出家する。のち、浄土宗開祖法然浄土教を学ぶ。大峯熊野御嶽葛城など各地険しい山谷を歩き修行をする。 重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源入宋日宋貿易とともに日本僧の渡海活発になった時期に当たり、仁安3年1168年)に栄西とともに帰国した記録がある。宋での重源目的地華北五台山だったが、当地金の支配にあったため断念し宋人勧進誘いに従って天台山国清寺阿育王寺参詣した舎利信仰聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進請け負った帰国後の重源舎利殿建立事業勧進通して平氏後白河法皇提携関係を持つようになる重源舎利殿建立事業取り組む過程博多周辺木材事情通じようになった承安元年1171年)頃に建立始まった博多誓願寺本尊制作する際に、重源周防国徳地から用材調達している。 東大寺治承4年1180年)、平重衡南都焼討によって伽藍大部分焼失大仏殿数日わたって燃え続け大仏盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた養和元年1181年)、重源被害状況視察に来た後白河法皇使者である藤原行隆東大寺再建進言し、それに賛意示した行隆の推挙受けて東大寺勧進職就いた当時重源は齢61であった

※この「出自と経歴」の解説は、「重源」の解説の一部です。
「出自と経歴」を含む「重源」の記事については、「重源」の概要を参照ください。


出自と経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 23:38 UTC 版)

ムハンマド・ブン・マルワーン」の記事における「出自と経歴」の解説

ムハンマドウマイヤ朝カリフマルワーン1世在位684年 - 685年)とザイナブという名の女奴隷の間に生まれたマルワーン1世後継カリフであるアブドゥルマリク・ブン・マルワーン(在位685年 - 705年)は異母兄弟にあたる。 ムハンマドマルワーン1世カリフ即位した頃にアルメニア支配確保するためにメソポタミア北部派遣された。その後691年起こったマスキンの戦いで、ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル英語版)(イスラーム世界第二次内乱期にウマイヤ朝対抗してメッカカリフ称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル兄弟にあたる)の軍に対抗するためにアブドゥルマリクの軍の前衛部隊率いた692年セバストポリスの戦いでは大規模なスラヴ人部隊説得して返らせることでビザンツ帝国軍隊打ち破ることに成功した翌年には同じスラヴ人助け借りてビザンツ帝国支配する小アジア侵攻し、ゲルマニケイアの近郊ビザンツに対して勝利を収めたまた、695年にはビザンツ帝国領のアルメニア第四州襲撃した699年から701年にかけて、ムハンマドは甥のアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリク英語版とともに、アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアス(英語版)の反乱の鎮圧当たっていたウマイヤ朝総督アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を支援するためにイラク派遣された。701年ムハンマドユーフラテス川東方位置するビザンツ帝国支配下にあったアルメニア地方対す軍事行動率い、その地の住民ビザンツ帝国総督のバーネスに対してウマイヤ朝への服従強要した。しかし、ムハンマドがその地を去るとすぐにアルメニア人反乱起こしビザンツ帝国支援求めたムハンマドアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリク703年704年二度わたった軍事作戦によって反乱鎮圧し、さらにムハンマド705年アルメニア貴族(ナハラル(英語版))に対す大規模な虐殺実行することでイスラーム教徒による支配確実なものにした。 705年ワリード1世在位705年 - 715年)がカリフ即位した頃からムハンマド自分と同様に女奴隷の生まれであった甥のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)によって自身立場奪われ始めた。マスラマはビザンツ帝国対す軍事行動主導権握り709年もしくは710年には最終的にメソポタミアアルメニア、およびアゼルバイジャン総督地位ムハンマドから完全に奪ったその後ムハンマド719年もしくは720年死去した

※この「出自と経歴」の解説は、「ムハンマド・ブン・マルワーン」の解説の一部です。
「出自と経歴」を含む「ムハンマド・ブン・マルワーン」の記事については、「ムハンマド・ブン・マルワーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「出自と経歴」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「出自と経歴」の関連用語

出自と経歴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



出自と経歴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのスラヴ人トマス (改訂履歴)、ジェニーン・ジョーンズ (改訂履歴)、重源 (改訂履歴)、ムハンマド・ブン・マルワーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS