出自と経歴
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トマスの出自について明確なことはわからない。11世紀の『続テオファネス年代記』はトマスが歴代ビザンツ皇帝たちによって小アジアに移住させられた南スラヴ人(英語版)の出自であると説明し、10世紀のゲネシオス(英語版)の『皇帝列伝』は彼をGouzourou湖から来たアルメニア種族のトマスと呼んでいる。従って彼の異名「スラヴ人」はあくまで現代の呼称である。トマスの家族および幼少期については、彼の両親が貧しかったことと、彼が満足な教育を受けていなかったこと以外何一つわかっていない。彼が反乱を起こした時、50歳から60歳の間であったことから、彼は恐らく760年頃に生まれたと考えられる。 トマスについての主たる情報源であるゲネシオス(Genesios)の『皇帝列伝』と『続テオファネス年代記』は両者とも若き日のトマスについて2つの異なるバージョンの説話を採録している。それぞれは以下のようなものである。 第一の説話:トマスは803年に将軍バルダネス・トゥルクス(英語版)の部下として初めて登場し、彼が反乱を起こす820年の後半まで軍人としてのキャリアを歩んでいた。 第二の説話:トマスは貧しい若者で、コンスタンティノープルに住み着くようになり、宮廷でパトリキオス(バルダネスのことと言われる)の地位をもつ人物に仕えた。その後、主人の妻との姦通を試みたことが露見し、トマスはアラブ人支配下のシリア(英語版)へと逃亡し、そこに25年間留まった。彼はその後、殺害された皇帝コンスタンティノス6世(在位:780年-797年)の名を騙り、アラブ人の支援を受けて小アジアを侵略した。 このためにトマスの初期の経歴について様々な見解が提案された。古典古代及びビザンツ学者のジョン・バグネル・ベリーはこの二つの説話を整合させようと試み、トマスのアッバース朝への逃走を788年頃、彼のビザンツ帝国への復帰を803年以前とした。一方でロシア人の学者アレクサンドル・ワシーリエフ(英語版)はこれらの記録はトマスがコンスタンティノス6世が廃位された797年にアッバース朝に逃走したことをほのめかしていると解釈し、またバルダネスの反乱にトマスが参加していた可能性は全くないとした。 ゲネシオスと『続テオファネス年代記』の筆者は明らかに第二の説話を支持しており、ゲオルギオス・モナコス(英語版)(修道士ゲオルギオス)の年代記と『レスボス島の聖ダヴィド、シメオン、ゲオルギオスの事績(Life of Saints David, Symeon, and George of Lesbos)』という9世紀の記録にはこちらの版の記録しかない。にも関わらず、フランスのビザンツ学者ポール・ルメルル(英語版)はこれを、トマスの敵対者であったミカエル2世によって後に作られた信頼できない伝承であり全く採用できないとして第一の説話のみを使用している。そして現代の学者の大部分はルメルルの解釈に従っている。また、シニェス・コドニェルは、実際にはトマスという人物が二人おり、後にそれが同一人物であると見なされた結果混乱が生じたという大胆な説を提唱した。 第一の説話は、トマスがスパタリオス(英語版)(spatharios、spatharioi)として東部のテマのモノストラテゴス(英語版)(monostrategos、「ただ一人の将軍」、最高司令官)のバルダネス・トゥルクスに仕えていたことを伝えている。バルダネスは803年に皇帝ニケフォロス1世(在位:802年-811年)に対して反乱を起こした。バルダネスの臣下にはトマスと並んでアルメニア人レオン(後のレオン5世)とアモリオンの人ミカエル(後のミカエル2世)という二人の若いスパタリオイ(spatharioi)がおり、彼らは兄弟のような関係を築いていた。後世の歴史伝承によれば、バルダネスが反乱を起こす前、彼は3人の若き家来(Protégés)を連れて、フィロメロン近郊に住む将来を予見すると評判の修道士を訪ねたという。この修道士はこれから起こること、即ちバルダネスの反乱が失敗するであろうこと、レオンとミカエルはいずれも皇帝となるであろうこと、トマスは皇帝として歓呼されるが、殺害されるであろうことを予言した。これは無論、史実とは考えられない。 バルダネスが実際に反乱を起こした時、彼はいかなる意味においても広範な支持を得ることに失敗した。レオンとミカエルはすぐに彼を見放し、帝国の軍営へと逃げ込んで軍の上級司令官の地位を与えられた。トマスはただ一人バルダネスが降伏するまで彼への忠誠を維持した。バルダネスの反乱の失敗の後、トマスは10年間に渡り史料から姿を消す。ベリーはトマスがアラブ人の下へ(ベリーの解釈に従えば2回目の)逃亡したと主張した。この見解はロミリー・ジェームズ・ヘラルド・ジェンキンス(英語版)のような多くの学者から支持されている。しかし、歴史学者ウォーレン・トレッドゴールド(英語版)は、トマスとバルダネスの関係がトマスのキャリアを妨げたという話の曖昧さを説明し、トマスは帝国内に留まっており、恐らく軍人としての職務を活発に続けてもいたであろうと主張する。 813年7月、アルメニア人レオンは皇帝になると素早く古い仲間たちに報酬を与え、彼らに軍の精鋭を指揮させた。ミカエルはExcubitors(コンスタンティノープル周囲に駐留する専門の近衛騎兵連隊の1つ)のタグマを任され、フォイデラトイ(Foederati)のトマスのトゥルマ(英語版)(tourma、師団)はテマ・アナトリコンに駐留した。
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出自と経歴
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「ジェニーン・ジョーンズ」の記事における「出自と経歴」の解説
ジョーンズは1950年7月13日にテキサス州サンアントニオで生まれ、ナイトクラブのオーナー夫妻に養子として引き取られた。16歳の時には弟がパイプ爆弾で自殺し、翌年養父も末期癌で死亡した。 彼女は高校時代の恋人と1968年に結婚し、子どもを1人もうけた後、1974年に離婚した(その後1977年に復縁し、さらにもう1人が生まれている)。起訴の直前、ジョーンズは19歳の看護助手と再婚したが、起訴後の1983年12月に相手側から離婚届が提出された。最初の結婚の頃は美容師として働いていたが、1977年に資格取得のため看護学校へ入学した。卒業後はサンアントニオのメソジスト病院、またある私立病院に勤務したが、出しゃばった判断を行うなどの理由で長続きしなかったという。 彼女はベア郡立病院(現ユニバーシティ・ヘルス・システム(英語版))の小児集中治療室(英語版)で准看護師(英語版)として働き始めたが、ジョーンズの勤務中には、彼女が看護した子どもたちが大勢亡くなっていた。病院は訴訟を起こされることを恐れ、ジョーンズを含めた准看護師全員へ解雇に応じるよう求め、代わりに小児集中治療室のスタッフを正看護師のみに変更した。解雇前、ジョーンズの勤務時間は「死のシフト」、また彼女自身も「死の看護師」と呼ばれていたほどだったが、ベア郡の検死医に異状死に関する報告は一切無かったという。1984年にジョーンズが有罪判決を受けた後、ベア郡立病院は彼女が勤務していた時期の公式記録を破棄しており、正確な被害者数は分かっていない。 彼女はその後、サンアントニオに程近いテキサス州カーヴィル(英語版)に移り、小児科の開業病院に勤めることになった。彼女はここで6人の子どもへ毒を盛ったとして罪に問われた。医師は自分とジョーンズしか入ることのできない薬品庫で、穿刺の痕が残るサクシニルコリン(筋弛緩剤)の瓶を見つけた。中身は満量に見えたが、後の調査で希釈されていたことが判明した。この脱分極性筋弛緩薬は、投与すると全身の筋肉が弛緩して心停止・呼吸不全・窒息を引き起こすことになる。ジョーンズは自身の働きについて、カーヴィルで小児集中治療室を設立する助けがしたかったのだと主張した。
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出自と経歴
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紀氏の出身で紀季重の子。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。 重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西とともに帰国した記録がある。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺と阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる。 重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった。承安元年(1171年)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。 東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。
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「ムハンマド・ブン・マルワーン」の記事における「出自と経歴」の解説
ムハンマドはウマイヤ朝のカリフのマルワーン1世(在位:684年 - 685年)とザイナブという名の女奴隷の間に生まれた。マルワーン1世の後継のカリフであるアブドゥルマリク・ブン・マルワーン(在位:685年 - 705年)は異母兄弟にあたる。 ムハンマドはマルワーン1世がカリフに即位した頃にアルメニアの支配を確保するためにメソポタミア北部へ派遣された。その後、691年に起こったマスキンの戦いで、ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)(イスラーム世界の第二次内乱期にウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの兄弟にあたる)の軍に対抗するためにアブドゥルマリクの軍の前衛部隊を率いた。692年のセバストポリスの戦いでは大規模なスラヴ人の部隊を説得して寝返らせることでビザンツ帝国の軍隊を打ち破ることに成功した。翌年には同じスラヴ人の助けを借りてビザンツ帝国が支配する小アジアへ侵攻し、ゲルマニケイアの近郊でビザンツ軍に対して勝利を収めた。また、695年にはビザンツ帝国領のアルメニア第四州を襲撃した。 699年から701年にかけて、ムハンマドは甥のアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリク(英語版)とともに、アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアス(英語版)の反乱の鎮圧に当たっていたウマイヤ朝の総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を支援するためにイラクへ派遣された。701年にムハンマドはユーフラテス川東方に位置するビザンツ帝国の支配下にあったアルメニア地方に対する軍事行動を率い、その地の住民とビザンツ帝国の総督のバーネスに対してウマイヤ朝への服従を強要した。しかし、ムハンマドがその地を去るとすぐにアルメニア人は反乱を起こし、ビザンツ帝国に支援を求めた。ムハンマドとアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリクは703年と704年の二度にわたった軍事作戦によって反乱を鎮圧し、さらにムハンマドは705年にアルメニア貴族(ナハラル(英語版))に対する大規模な虐殺を実行することでイスラーム教徒による支配を確実なものにした。 705年にワリード1世(在位:705年 - 715年)がカリフに即位した頃からムハンマドは自分と同様に女奴隷の生まれであった甥のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)によって自身の立場を奪われ始めた。マスラマはビザンツ帝国に対する軍事行動の主導権を握り、709年もしくは710年には最終的にメソポタミア、アルメニア、およびアゼルバイジャンの総督の地位をムハンマドから完全に奪った。その後、ムハンマドは719年もしくは720年に死去した。
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