出自と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:36 UTC 版)
「カルディアのエウメネス」の記事における「出自と逸話」の解説
エウメネスは他のディアドコイのように王家との血縁関係を持っていたわけではなかった。貴族の生まれでもなく、ましてやマケドニア人ですらなかったために、勢力基盤が脆弱であった。それゆえ自身の地位を保持するために、王家との結びつきを何よりも必要としていた。ちなみに、女性でありながらアレクサンドロス死後の権力争いに身を投じたアレクサンドロスの母オリュンピアスは、同じ外国人ゆえか彼を信頼していたようであり(彼女はエピロス王家からマケドニアに嫁いでいた)、彼を味方に引き込もうとしたり、助言を求めたりした。 また、文官出身であるとの理由でエウメネスを軽んじていた将軍も少なからずいた。ヘレスポントスの戦いの直前、援軍にと派遣された将軍のアルケタスとネオプトレモスはエウメネスに従うのを嫌がって彼の軍に合流しなかった。またネオプトレモスは、自分たち将軍は王に剣で仕えてきたのにエウメネスはペンで仕えていたと言って、かねてよりあからさまに馬鹿にしていたようである。そこでエウメネスは、配下の指揮官たちから意図的に多額の金を借り入れることで自分を裏切れないようにしたり(裏切った場合貸した金が回収できなくなる)、自分に従おうとしない指揮官を納得させるため、軍議の場にアレクサンドロス大王の椅子を置き、いわば御前会議の形式を取った、といった逸話が残っている。しかし、それでも指揮系統を完全に掌握することは出来ず、そのことが彼の最期へと結びついていくことになった。 エウメネスの列伝を書いたコルネリウス・ネポスによれば、ディアドコイはエウメネスの力量を高く評価し、彼の生前は誰も王を称することも王家を蔑ろにすることもなかったが、アレクサンドロスの子供たちの「ただひとりの擁護者〔エウメネス〕を亡きものにすると、自分たちの真の目的を鮮明にした」という(『英雄伝』、エウメネス伝、13)。ちなみに最初に王を称したのはアンティゴノス・デメトリオス父子で、エウメネスの死の10年後の紀元前306年である。
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