出自と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 06:20 UTC 版)
ムウタディドはアッバース朝のカリフのムタワッキル(在位:847年 - 861年)の息子であるタルハ(ムワッファク)とディラールという名のギリシア人奴隷の間に生まれた。ムウタディドの正確な生年月日は不明である。ムウタディドはさまざまな人物によって即位時に38歳または31歳であったと記録されているため、854年頃か861年頃の生まれであると考えられている。861年にムタワッキルは長男のムンタスィル(在位:861年 - 862年)と共謀したトゥルク人警備兵によって暗殺された。この事件は当時のアッバース朝の首都の場所からサーマッラーの無政府状態(英語版)として知られる内部混乱の時代の始まりを告げ、混乱は870年のムウタディドの叔父にあたるムウタミド(在位:870年 - 892年)の即位によって終わりを迎えた。しかしながら、実権は支配層であるトゥルク人の奴隷軍人(ギルマーン、単数形ではグラーム)と、アッバース朝の主要な軍司令官として政府とトゥルク人の間の最も重要な仲介役となったムウタディドの父親のタルハに握られるようになった。カリフと同様の様式でムワッファクの尊称を名乗ったタルハはすぐにアッバース朝の実質的な支配者となった。882年にはムウタミドがエジプトへの逃亡を図ったものの失敗に終わり、ムウタミドは軟禁下に置かれ、ムワッファクはその地位を固めた。 地方におけるアッバース朝の権威はサーマッラーの無政府状態の期間に崩壊し、その結果、870年代までに中央政府はイラクの大都市圏以外のほとんどの領域に対する実効的な支配を失った。西方ではトゥルク人の奴隷軍人であり、ムワッファクとシリアの支配をめぐって争ったアフマド・ブン・トゥールーン(英語版)がエジプトを支配下に置き、一方でホラーサーンと東方のイスラーム世界の大部分の支配がアッバース朝に忠実な勢力であったターヒル朝からペルシア系のサッファール朝に取って代わった。アラビア半島のほとんどの地域も同様に地元の有力者の手によって失われ、タバリスターンでは急進的なザイド派によるシーア派王朝が政権を打ち立てた。本拠地のイラクにおいてでさえ、イラク南部の大農園における労働力として連れて来られたアフリカ人奴隷であるザンジュによる反乱がバグダードに脅威を与え、さらに南方のカルマト派が危険な存在となりつつあった。その結果として、ムワッファクによる執政は、体制が揺らぐアッバース朝を崩壊から救うための継続的な闘争の性格を有するようになった。領土を拡大し、世襲統治者としての承認を得ることにアフマド・ブン・トゥールーンが成功したことで、エジプトとシリアの支配を取り戻すムワッファクの試みは失敗に終わった。しかし、ムワッファクはバグダードの占領を目指したサッファール朝の侵略を撃退し、長い闘争の末にザンジュの乱を鎮圧したことで、イラクのアッバース朝の中核地帯を維持することには成功した。
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