混乱の時代とは? わかりやすく解説

混乱の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:13 UTC 版)

イタリア王」の記事における「混乱の時代」の解説

詳細は「ランゴバルド王国」、「フランク王国」、「シチリア首長国」、「シチリア王国」、「ナポリ王国」、および「トリナクリア王国」を参照 568年ランゴバルド族の王アルボイーノベリサリウス失脚後ローマ帝国に他の異民族連合して攻め込みイタリア王称号使用したランゴバルド王国)。ランゴバルド王国それまで勢力とは異なりイタリア本土行政区を完全に支配することは最後までできず、イタリア王というよりもランゴバルド王(rex Langobardorum)としての側面強かった最初期には北東部ヴェネツィア周辺北西部リグーリアロマーニャ中部ローマ周辺南部ナポリ周辺カラブリア半島サレント半島シチリア島などはローマ皇帝忠誠誓っていた。支配が進む中でこれらの地域にも遠征が行われ、幾つかの地域王国併合された。それでも一部地域抵抗続け次第ローマ公国ナポリ公国カラブリア公国・アプリア公国ヴェネツィア共和国などランゴバルド王国対峙する統治体制形成していった。混乱拍車をかけたのが、フランク人アラブ人侵入であった774年フランク王シャルルマーニュ南フランスからランゴバルド王国領に侵攻すると、王国北部中部領域占領下置いた同時に実質的に崩壊状態に陥ったランゴバルド王国併合をも宣言して使用されていた王冠ロンバルディアの鉄王冠)を持ち去った一方で遠征途中で切り上げたことから南部遠征の影響受けず、さらに中部は後にローマ教会寄進され教皇領となった南部ではローマ帝国封建勢力と旧ランゴバルド王国南部領土を前身とするベネヴェント公国が、以前からの戦い引き継いで紛争続け、そこに北アフリカ支配したアラブ人攻撃始まった827年アグラブ朝イスラム帝国シチリア島上陸イスラム教徒シチリア遠征英語版))、一度撃退されたもののファーティマ朝時代に再び占領され952年シチリア首長国成立した1071年南部情勢ヴァイキング到来によって一応の終焉を見る。サレント半島押さえたノルマン貴族ロベルト・イル・グイスカルドローマ系ランゴバルド系の別を問わずこれらを併合し、さらにその弟ルッジェーロ1世シチリア首長国占領して一つ王権にまとめ上げたノルマン・シチリア王国オートヴィル朝)。後にナポリ王国トリナクリア王国という二つ王国分離したものの、それ以上混乱は起こらなかった。

※この「混乱の時代」の解説は、「イタリア王」の解説の一部です。
「混乱の時代」を含む「イタリア王」の記事については、「イタリア王」の概要を参照ください。

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