タバリスターン
タバリスターン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 13:53 UTC 版)
イスラーム教徒のペルシア征服の間、ホラーサーン(東)のスパーフベドは明らかにタバリスターンの山中へと後退した。彼はそこでサーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世に自らの下へ避難するよう勧めたが、ヤズデギルド3世はこれを拒否し651年に殺害された。隣接するグルガーン(英語版)地方とギーラーン地方を含むサーサーン朝の領域の旧地方支配者たちと同様に、スパーフベドはアラブ人の用語として引き継がれた。彼らはこのスパーフベドの地位にある者に毎年の貢物と引き換えにタバリスターンの実質的な独立支配者としての地位を維持することを承認した。これがDabuyid朝成立の基点となり、アッバース朝に征服されて地方領土として組み込まれる759年-761年まで彼らはタバリスターンを支配した。彼らはパフラヴィー文学の伝説と651年のサーサーン朝の滅亡から始まる暦を用いて自前のコインを造り、Gīlgīlan、Padashwargarshah(Patashwargarのシャー、Patashwargarはタバリスターンの山岳地帯の古い名前である)、そしてホラーサーンのアスパーフバド(ispahbadh)(اسپهبذ、新ペルシア語形ではspahbed)といった称号を主張した。 アスパーフバド(ispahbadh)という称号はこの地域の別系統の地方支配者であるカーレーン家(英語版)によっても主張された。彼らはかつてのサーサーン朝の分流であることを主張し、自分たちをDabuyid朝の後継者であると見て、839/840年までタバリスターン中央部および東部を支配した。そして東部山岳地帯のバーワンド朝(英語版)の複数の支族が13世紀のモンゴルの侵攻と征服(英語版)後まで生き残った。この称号はまた、タバリスターンに隣接して住むダイラム人(英語版、ドイツ語版)によって使用された。この地方の複数の後世の文書において、この称号は単に地元の首領を意味するようになっている。
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タバリスターン
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ザイドの蜂起の際、積極的にこれを支持したアブル・ジャールード・ハマダーニー(ペルシア語版)の神学理論は、当時のクーファで支配的であったムゥタズィラ学派の論と異なり、決定論的であった。また、アブー・バクルやウマルの正当性を認めず、この点でもザイド派の主流とは異なり、彼を支持した一派はザイド派における最初の分派になった。後にタバリスターン地方やヤマーマ地方(アラビア語版)に浸透したザイド派は、このジャールード派(アラビア語版)であった。 アラヴィー朝は、ザイド・ブン・アリーの子孫とされるハサン・ブン・ザイド(ダーイー・キャビール)(英語版、ペルシア語版)をアミールとして、864年にタバリスターンのデイラマーンにおいて自立した政権である。928年にスンナ派のサーマーン朝によりアミールが殺されるまで続き、約40年後にギーラーン地方で再興、1126年まで続いた。タバリスターン、ギーラーン、ダイラムのザイド派政権はサファヴィー朝初期まで続いた。
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