出自と登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:16 UTC 版)
永正5年(1508年)生まれ。出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住(現在の高槻市)の土豪出身など諸説がある。長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している。しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ、2012年頃からは摂津国五百住の土豪出身の説も大きくなっている。阿波国説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市市場町犬墓)旧家の由緒書に基づくが、長慶父の三好元長が阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、三好実休に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている。 天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。史料における初見は天文9年(1540年)と言われている。天文9年(1540年)6月9日、長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が弾正忠の官名で伝達している。同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる。 史料上の初見の時期からも、三好長慶が、それまでの三好勢のように、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡半国の守護代になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られる。天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく武将としての活動も始めていた。長慶が細川晴元の部下であった頃から仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである。
※この「出自と登場」の解説は、「松永久秀」の解説の一部です。
「出自と登場」を含む「松永久秀」の記事については、「松永久秀」の概要を参照ください。
- 出自と登場のページへのリンク