出自と王位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 16:01 UTC 版)
「アッシュルバニパル」の記事における「出自と王位継承」の解説
父親であるエサルハドンには多数の息子がいたと見られ、アッシュルバニパルは恐らく4番目の息子であった。兄に王太子シン・ナディン・アプリ(英語版)およびシャマシュ・シュム・ウキンとシャマシュ・メトゥ・ウバリト(英語版)がおり、姉にシェルア・エテラトがいた。王太子シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが非常に困難な王位継承争いの末に即位したエサルハドンは同じ問題を発生させないことを切望しており、すぐに新しい王位継承計画を策定し始めた。エサルハドンはこの王位継承の計画において3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリトを完全に除外しているが、これは恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう。 前672年5月、アッシュルバニパルはエサルハドンによってアッシリアの後継者に指名された。また、シャマシュ・シュム・ウキンもバビロニア(当時アッシリアの支配下にあった)の継承者に指名された。両者は共にアッシリアの首都ニネヴェに赴き、外国使節・アッシリア貴族・兵士たちの祝賀を受けた。過去数十年にわたり、アッシリア王は同時にバビロニア王を兼任しており、息子のうちの1人をアッシリア王に、別の1人をバビロニア王にするというのは新機軸であった。 アッシリア王という称号は明らかにエサルハドンにとって第一の称号であった。このアッシリアの王太子に弟であるアッシュルバニパルを就け、兄であるシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王太子にした理由は、彼らの母親の出自によって説明できるかもしれない。アッシュルバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であったが、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロン出身の女性の息子であった(ただしこれは確実ではない。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟であった可能もある)。母親の出自ゆえに、もしエサルハドンがシャマシュ・シュム・ウキンをアッシリアの後継者に指名していれば問題が起こったであろう。アッシュルバニパルはその次に年長の王子であったため、適格性の高い王位候補者であった。エサルハドンは恐らく、バビロニア人たちが自分たちの王を戴くことに満足するであろうと考え、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロン市とアッシリア帝国の南部(即ちバビロニア)の王位継承者として設定した。 エサルハドンはこの王位継承の取り決めを全アッシリアの人々や属国に遵守させるため誓約を結ばせた。この誓約の本文はアッシリアの旧都カルフ(ニムルド)と現在のトルコ南部にあるテル・タイナト遺跡から発見されている。継承に関わる誓約の内容は、エサルハドンが2人の息子の関係をどのようなものと意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュルバニパルの称号には多くの場合「偉大な」という形容詞が付加される一方で、シャマシュ・シュム・ウキンにはそれがなく、アッシュルバニパルが帝国の第一の相続人であることは明確であったが、別の部位ではアッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に干渉しないことも明記されており、これはより平等と言える立場を示している。 アッシュルバニパルは王太子に指名された後、父を注意深く観察し、作法を学び、軍事戦術を学習して、王位に就く準備を始めた。また、アッシュルバニパルは諜報組織の長も務め、アッシリア帝国全土の情報員からの情報を取りまとめて父親に報告した。そして将軍ナブー・シャル・ウツル(Nabu-shar-usur)と書記ナブー・アヒ・エリバ(Nabu-ahi-eriba)から教育を受け、文学と「歴史」への興味を深めた。彼は書記技術と宗教的学識を習得し、自らの母語であるアッカド語に加え、シュメール語にも習熟した。アッシュルバニパル自身の後の記録(彼の治世の主たる史料となる彼の年代記)によれば、その知性と勇気の故に、エサルハドンはアッシュルバニパルを気に入っていたという。 エサルハドンは頻繁に病を患っており、恐らくは膠原病の一種である全身性エリテマトーデスに罹患していたことから、その治世の最後の数年間はアッシリア帝国の行政的義務の大半がアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた。エサルハドンがエジプト遠征に出発すると、アッシュルバニパルは宮廷の一切を取り仕切り、前669年にエサルハドンが死亡すると、アッシュルバニパルの元に全権が円滑に移行した。
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