出自と最初のハッジ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:48 UTC 版)
「イブン・バットゥータ」の記事における「出自と最初のハッジ」の解説
イブン・バットゥータに関しては出自にしろ旅の記録にしろ自叙伝として伝えられている以外の情報はない。それによれば彼は1304年2月24日/25日、マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、すなわちウラマーの一家に生まれている。彼の家はラワータ(Lawata)として知られるベルベル人の部族の出身であると記されている。このことから当時北アフリカで優勢だったマーリク学派の法学を修めたものと考えられる。1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発った。本来は往復16ヶ月の道程である。しかし彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となった。 励ましあう道連れもキャラバンも伴わず私は一人で旅に出た。私の中にある圧倒的な衝動と、ずっと胸のうちに抱いてきた名に負う聖地を訪れてみたいという欲求が私を突き動かした。私は家を、そして愛する人々のもとを去る決心をした。ちょうど渡り鳥が巣を捨てるように。それでも両親との絆は痛みとなって私の上に重く圧し掛かる。私も両親も、この別れにはひどく悩まされた。 彼は北アフリカ海岸沿いを陸路にてメッカを目指した。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断する途上でトレムセン、ベジャイアを通過、そしてチュニスに到着すると彼はそこで2ヶ月を過ごした。そしてスファックスで最初の花嫁を娶った。ここから始まる一連の結婚が彼の旅を特徴的なものにしている。 1326年の早春、3500キロの旅の後イブン・バットゥータはバフリー・マムルーク朝治下のアレクサンドリアの港に着く。そこで2人の禁欲的で敬虔な人物にあっている。1人はシャイフ・ブルハヌッディーン(Sheikh Burhanuddin)、いわく「私にはあなたが世界を旅することが好きな人間におもえる。あなたはインドにいる私の門弟ファリドゥッディーン(Fariduddin)、シンドにいるルコヌッディーン(Rukonuddin)、そして中国にいるブルハヌッディーン(Burhanuddin)を訪れるだろう。よろしく伝えておいてほしい」。彼はイブン・バットゥータが世界の旅人となることを予言していたのだと考えられている。もう一人の敬虔な人物、シャイフ・ムルシドはイブン・バットゥータの見た夢に対し、彼は世界の旅人になることになっている、と解釈を与えている。彼は数週間をこの付近の観光に費やし、内陸のカイロへむかった。マムルーク朝の首都であり、重要な都市である。カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内にて、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行った。すなわち通常知られているメッカに向かう3つの道のうちイブン・バットゥータは最も旅行者の少ない、ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブ(英語版)を経由するルートを選んだ。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまった。 イブン・バットゥータはカイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをした。1回目の旅で出会った聖人が、イブン・バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためだった。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もあった。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しまなかった。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたことであろう。 断食月(英語版)の1か月をダマスカスで過ごしたのち、彼はキャラバンに参加して1300キロ南の預言者の町マディーナに向かい、イスラム教の預言者ムハンマドの墓を訪れる。そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かった。これ以降イブン・バットゥータは、イスラーム社会においてハーッジーの尊称を帯びることが許されるようになった。ここで帰路に就くよりもむしろイブン・バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めた。
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