出自と幼少・青年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)
徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)である。宋書では漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の子孫と記されているが、実態は東晋の中級官吏の出身である。曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。 興寧元年(363年)3月17日、劉翹と趙安宗の長男として生まれた。生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。困窮した幼少時代であり、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、養育を放棄されかけたこともあった。見かねた生母の姉・趙氏が代わりに劉裕へ乳を与え、そこから寄奴という幼名がつけられた。なお趙氏の息子である劉懐粛・劉懐慎兄弟は後に劉裕の配下将として働いている。 父は後妻に蕭文寿を迎え、劉道憐・劉道規を産むも、劉裕が10歳の時に死去。残された劉裕はわずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。成長したのちには大志を抱き、こまごまとした礼節にはこだわらなかった。ただし継母にはよく仕えていると称賛を受けていた。
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