出自と家系
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二男とされているが、『公卿補任』では一男云々、という注記がある。正親町三条実躬は文永元年(1264年)の生まれであるから、実仲を公貫の長男とするのが正しいであろう。生母の出自の差により庶嫡が決められたと考えられる。 実仲が生を受けた家系は公氏以来閑院流三条家の庶流として続いてきたが、「正親町三条」の家名を厳密に適応させるとすれば光厳院の外戚となった公秀以降の三条家である。実仲の息男・公明が後醍醐天皇の側近となったため、実仲の系統は正親町三条家一門の三条家とみなすべきであろう。
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出自と家系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:07 UTC 版)
「アリー・ザイヌルアービディーン」の記事における「出自と家系」の解説
アリー・イブン・フサインは658年、マディーナに生まれた。父のフサイン・イブン・アリーは大部分のシーア派ムスリムが第3代イマームと認めるムハンマドの孫である。またシーア派には、アリー・イブン・フサインの母はサーサーン朝の末帝ヤズデギルド3世の娘のシャフルバヌーとする伝承がある。 このサーサーン帝室の後裔でもあるという信仰から、アリーはイブン・アル=ヒラヤタイン「最良の二つの息子」とも呼ばれる。「最良の二」とは、アラブにおけるクライシュ族と、非アラブにおけるペルシア人、なかんずくサーサーン帝室の意味である。 シーア派での伝承によれば、アリーの母は捕虜としてマディーナへ連行された。時の第2代正統カリフ・ウマルは、彼女を売ることを考えたが、アリー・イブン=アビー=ターリブはこれにかわって、彼女にムスリムのいずれかを夫として選択させ、婚資金は公金をもって賄うことを提案した。そこでウマルが同意し、彼女が選んだのがアリーの息子のフサインであったとされるのである。彼女はその一人息子のアリー・ザイヌルアービディーンを生んだ直後に亡くなったとされる。また祖父アリー・ブン・アビー=ターリブが亡くなったとき、アリー・ザイヌルアービディーンはおよそ2歳であった。 アリー・ザイヌルアービディーンはのち息子11人、娘4人、あわせて15人の子をなしている。
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