出自と官歴
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アウィトゥスはクレルモンのガリア系ローマ貴族の家庭に生まれた。彼の父は421年に執政官を務めたフラウィウス・ユリウス・アグリコラ(英語版)と考えられており、アウィトゥスには後にビリ・イルストリス(vir inlustris:「著名な男」)の称号を与えられたアグリコラ (英語版) (440年 -507年以降)とユリウス・ネポス帝の時代にパトリキの称号を与えられ軍務長官(マギステル・ミリトゥム)を務めたエクディキウス(英語版)の二人の息子がおり、娘のパピアニラ(英語版)はシドニウス・アポリナリスに嫁いでいる。現存するシドニウスの書簡と頌詩はアウィトゥスの時代を知る重要な史料となっている。 アウィトゥスは当時の彼の階級としては典型的な法学を含む各種学問を収めた。421年以前に郷里の減税を請願するためにアウィトゥスは有力なパトリキウスだったフラウィウス・コンスタンティウス(421年に短期間、皇帝即位)の元へ使いをし、この任務を成功させている。彼の親類のテオドルスが人質として西ゴート王テオドリック1世の宮廷に拘留されており、425年か426年にアウィトゥスはテオドルスとの面会に訪れ、ここでテオドリック1世はアウィトゥスに自身の宮廷に留まるよう勧めた。439年頃に西ゴート宮廷でアウィトゥスはテオドリック王子(後のテオドリック2世)と出会い、若い王子にラテン語詩文を教授している。 その後、彼は軍歴を務め、軍務長官アエティウスの指揮下でジュトノジ族(英語版)とノリクム属州での戦役(430年 - 431年)そしてブルグント族との戦い(436年)に従軍した。437年、ビリ・イルストリスに昇格したアウィトゥスは郷里のアベニアに戻り、ここで高官(おそらくはガリア軍区司令官職)に就き、この年に彼はフン族の集団の襲撃をクレルモン近くで撃退し、さらにテオドリック1世にナルボンヌ包囲を止めさせている。439年にガリア民政総督(英語版)に就任し、西ゴート族との友好条約を更新した。 440年夏以前に彼は引退してクレルモン近郊のアヴィタクムの所領に隠遁した。451年にアッティラ率いるフン族の軍勢が西ローマ帝国に侵攻するとアウィトゥスはテオドリック1世にローマと同盟するよう説得し、そしてテオドリック1世とアエティウスの合同軍はカタラウヌムの戦いでアッティラを打ち破ることができたが、この戦いでテオドリック1世は戦死した。
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出自と官歴
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「ペトロニウス・マクシムス」の記事における「出自と官歴」の解説
ペトロニウス・マクシムスは396年頃に生まれており、彼の確かな出自は不明だが、名門アニキア(英語版)家に属していたと考えられている。後に皇帝となるオリブリオスとは親戚であり、祖父母は裕福な貴族で371年に執政官を務めたセクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロボス(英語版)とアニシア・ファルトニア・プロヴァ、父はアニキウス・プロビノス(英語版)であった。父のアニキウス・プロビノスは364年にイリュリクム属州長官になり、366年にはガリアそして368年から375年にはイタリア(英語版)の民政総督をおのおの務め、395年に執政官に就任していた。 マクシムスは若くから官界入りしており、知られている最初の官職は411年頃に就任した法務官であり、415年には帝国官僚の登竜門である護民官付書記官(英語版)となり、次いで416年から419年の間に帝室財務長官 (英語版) を務めている。 420年1月/2月から421年8月/9月に彼は首都長官(英語版)に就任し、聖ペテロ大聖堂(英語版)の修復を行い、439年以前に彼はもう一度この官職に就いている。さらに彼は421年から439年の間のいづれかに近衛軍団長官に任命され、この官職かまたは二度目の首都長官の時期の433年に執政官に選ばれた。 439年8月から441年2月までイタリア民政総督(英語版)に就任し、その後、443年に二度目の執政官に選ばれた。445年にパトリキ(貴族)に叙爵され、この年までにラビカナ街道と聖クレメンテ聖堂(英語版)の間の カエリウスの丘に公共広場を建設した。この年、彼は西ローマ帝国で最も名誉ある地位にあったが、それも翌年に軍務長官のアエティウスが三度目の執政官に選ばれるまでであった。 ペトロニウス・マクシムスと有力者のアエティウス将軍との不和が西ローマ帝国に次々と災厄をもたらすことになる。しかしながら、当初はこの災厄で最も利益を得たのはペトロニウス・マクシムスであり、454年にアエティウスが、次いで翌455年3月16日に皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺されたことにより、彼が帝位を手に入れることになった。
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出自と官歴
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アンテミウスは東ローマ帝国において文武両官の高位を与えられてきた著名な家門プロコピア家(英語版)に属していた。母は346年に東方民政総督(英語版)を務めたフラウィウス・ピリップス(英語版)の曾孫にあたり、母方の祖父は404年から415年に東方民政総督を務め、405年には執政官に選ばれたフラウィウス・アンテミウスである。彼の父は422年から424年に東方軍区長官(magister militum per Orientem)を務めたプロコピウス(英語版)であり、ウァレンス帝に対する僭称皇帝プロコピウス(ユリアヌス帝の母方の従兄で母がユリアヌス帝の母バシリナの姉妹)の後裔にあたる人物であった(僭称皇帝プロコピウスの子に同名のプロコピウス(365年 - 没年不明)がおり、このプロコピウスが東方軍区長官を務めたプロコピウスの父である。故にアンテミウスはプロコピウス直系の曾孫となる)。 450年頃のヨーロッパ 西ローマ帝国a 東ローマ帝国a フ ン 族a ブルグント族a フランク族a 西ゴート族a スエビ族a ヴァンダル族a アンテミウスは420年頃にコンスタンティノープルに生まれ、長じてアレクサンドリアに渡り、新プラトン主義の哲学者プロクロスの元で学び、同門にはマルケリヌス(英語版)(イリュリクム軍区長官兼民政総督)、プゥサィルゥス(英語版)(東方民政総督および467年の執政官)、セウェルス(英語版)(470年の執政官および首都長官(英語版))そしてパンプレピゥス(英語版)(異教徒の詩人)がいた。 453年に彼は東ローマ皇帝マルキアヌス(在位:450年 - 457年)の皇女マルキア・エウフェミア(英語版)と結婚した。この結婚の後に彼は督軍(英語版)に昇格し、453年のフン王アッティラの死後、荒廃するに任されていたダーヌビアン辺境地域の防衛線再建に派遣された。454年に彼はコンスタンティノープルに召喚され、454年か455年にパトリキウス(貴族、名誉顕官)の称号が与えられ、定員2名の東方軍区長官職の一人に任命された。455年に彼は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の同僚執政官たる名誉に浴した。 マルキアヌス帝の皇女との結婚、軍の要職への昇進(軍事行動よりも管理業務が主であったが)、パトリキウスの称号そして軍職の最高位、西ローマ皇帝の同僚たる執政官職といった一連の名誉ある出来事はマルキアヌス帝がアンテミウスを東西いずれかの次期ローマ皇帝候補としていたことを示唆する。この仮定は6世紀の歴史家ヨハンネス・マララス(英語版)がマルキアヌス帝がアウィトゥス帝の次の西ローマ皇帝として彼を指名したと誤って記述していることによっても補強される。 456年10月に西ローマ皇帝アウィトゥスは廃位され、マルキアヌス帝はおそらくはアンテミウスをその後継者にしようと考えたが、457年1月に彼を同僚皇帝に指名する前に死去してしまった。この結果、両帝国の皇帝が空位となり、西帝国では二人の将軍、リキメルとマヨリアヌス、東帝国ではアラン人のマギステル・ミリトゥム(軍務長官)アスパルがおのおの実権を握った。蛮族出身で皇帝に即位することはできないアスパルは高い権威を持ち自立して行動しそうなアンテミウスの即位に反対し、より低い階級の軍人レオを皇帝に選出させた。西帝国でも蛮族出身のリキメルは即位できず、紫衣を受けたのはマヨリアヌスであった。 アンテミウスは軍務長官となり新帝レオ1世に仕え、国境を脅かす蛮族から帝国を守る任務に就いた。460年頃に彼はヴァラミール(英語版)率いる東ゴート族とイリュリクムで戦い勝利した。466年から467年の冬にはドナウ川を渡りダキアを荒らしたオルミダク(フランス語版)率いるフン族を撃破している。セルディカ(ソフィア)を占領した襲撃者たちはアンテミウスに包囲され、飢えに苦しんだフン族が町を出て野戦をしかけた。フン族出身の騎兵指揮官の裏切りにもかかわらず、アンテミウスの歩兵部隊がこれに打ち勝った。オルミダクが降伏を申し出ると、アンテミウスは逃亡兵を引き渡すよう要求した。
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