裕福な貴族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 06:20 UTC 版)
「ラーコーツィ・ジェルジ1世」の記事における「裕福な貴族」の解説
ジェルジにはジグモンドとパールという2人の弟がいた。3人は父ジグモンドが王領ハンガリーに有していた広大な領地を相続した。ところが、彼らの長姉の夫ドルゲス・バーリントやジグモンドの未亡人テレディ・ボルバーラ、さらにボルバーラの義理の息子ケンディ・イシュトヴァーンが、ラーコーツィ・ジグモンドの遺産の一部を要求してジェルジら兄弟を告訴した。ジェルジはハンガリー王(兼神聖ローマ皇帝)の支持を取り付けるために1611年春にプラハへ赴いた。また彼はハンガリー副王トゥルゾー・ジェルジとも手を組んだ。 1615年、ジェルジはボルソド県のイスパーン(長官)となった。翌年、彼はオーノドの王領の城の城主となった。またジェルジは、裕福な相続人ロラーントッフィ・ジュジャンナと結婚した。彼女について、ジェルジは亡くなる直前まで、彼が人生で出会った中で最も美しく快い女性だと強調していた。夫婦は最初セレンチに居を構えたが、後にジュジャンナの領地シャーロシュパタクに移った。またジェルジとジュジャンナは、改革派教会の熱烈な信者だった。彼はバートリ・ガーボルを追い落としてトランシルヴァニア公となったカルヴァン派のベトレン・ガーボルを支持し、カトリックの対立公ドルゲス・ジェルジと対抗した。 ドルゲスがトランシルヴァニアに侵攻しようとした際には、ラーコーツィ・ジェルジは1616年7月にベトレンのもとに駆け付けている。 ルドルフ2世の跡を継いでハンガリー王となったマーチャーシュ2世(神聖ローマ皇帝マティアス)は、ハンガリー貴族のほとんどがプロテスタントであったにもかかわらず、カトリックの貴族を優遇した。しかも子がいないマーチャーシュ2世の後継者として指名されていたフェルディナーンド(2世、後の皇帝フェルディナント2世)は強硬な対抗宗教改革の支持者として悪名高かった。1618年7月1日、マティアスが存命のうちにフェルディナーンドがプレスブルクの議会でハンガリー王として戴冠した。ジェルジはこの議会を欠席した。
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