裕次郎との確執 - 日活退社
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「水の江瀧子」の記事における「裕次郎との確執 - 日活退社」の解説
1963年、裕次郎が瀧子の映画の製作主任を務めていた中井景と共に日活を離れ、石原プロモーションを設立。以後瀧子は『何かいいことないか』を初めとして石原プロと共同で数本の映画を製作していたが、1968年、瀧子宅と裕次郎宅の同居を巡っての確執が報じられ、同年11月の『君は恋人』を最後として瀧子と石原プロとの共同は途絶えた。 裕次郎は週刊誌の取材に対し、瀧子宅の使用人や出入り業者によって裕次郎宅のプライバシーが侵され、妻のまき子がノイローゼ気味になっていたことや、瀧子のコントロール下から抜け出したかったことなどを関係変化の理由に挙げている。裕次郎は自宅の庭の拡張を理由として瀧子に立ち退きを求め、移転費用1500万円を裕次郎が負担するという条件で事態は決着した。この後瀧子は東京を離れ、神奈川県秦野市郊外に移り住んだ。日活の企画部社員であった黒須孝治はこの出来事について「プロデューサーと、それで動くスターとの宿命ですよね、これは。それがこの二人にも避けがたく訪れたということでしょう」と評している。また、独立後の裕次郎と三船敏郎の共演で大ヒットした『黒部の太陽』を監督した熊井啓は、瀧子との関係が破綻した後の裕次郎について次のように述べている。 (前略)石原プロは現場は強いが映画作りの中枢である企画部から出た人で構成されてないから企画の失敗がいくつもあった。独立してからあまりいい映画作ってないでしょ。これは軍師がいなかったということです。水の江瀧子という軍師がいなかった悲劇ですよ。水の江さんの言っていることは全部当たっているとは限らない、しかし、ある方向は見出せる方でした。その中で僕らの才能を水の江さんなりに巧みに操作して、路線に持って行くという軍師でしたから、そういう人が石原プロにいれば、また違った裕ちゃんの作品ができたのではないかと思う。いい企画でね、映画作らしてやりたかったな、という気がします。逆に言えば、裕ちゃんが日活時代ずっとやってこれたのは、軍師なり、裏方なりに、そういう精鋭が揃っていたっていうことになるんですよ」 1970年7月、瀧子は江守清樹郎の退社に追随する形で契約を更新せず日活を離れた。最後のプロデュース作品は同年7月公開の原田芳雄主演の『反逆のメロディー』であったが、瀧子は当時大阪万博の仕事を兼務し映画に集中できない状況にあり、監督が瀧子の意図を汲まず不本意な作品だったとしている。 以後はテレビを中心に活動し、1972年からは『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員、1975年10月からは『独占!女の60分』のメインキャスターを、いずれも後述する芸能界引退直前まで務めた。また俳優としては『だいこんの花』(1974年)でテレビドラマに初出演。同年には熊井啓の監督映画『サンダカン八番娼館 望郷』にも出演した。最高視聴率23.0%を記録した『Oh!階段家族!!』(1979-1980年)では「モダンおばあちゃん」役で親しまれた。
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