裕次郎との確執 - 日活退社とは? わかりやすく解説

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裕次郎との確執 - 日活退社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:58 UTC 版)

水の江瀧子」の記事における「裕次郎との確執 - 日活退社」の解説

1963年裕次郎瀧子映画の製作主任務めていた中井と共に日活離れ石原プロモーション設立以後瀧子は『何かいいことないか』を初めとして石原プロ共同数本映画製作していたが、1968年瀧子宅と裕次郎宅の同居巡って確執報じられ同年11月の『君は恋人』を最後として瀧子石原プロとの共同途絶えた裕次郎週刊誌取材対し瀧子宅の使用人出入り業者によって裕次郎宅のプライバシー侵され、妻のまき子がノイローゼ気味になっていたことや、瀧子コントロール下から抜け出したかったことなどを関係変化理由挙げている。裕次郎自宅の庭の拡張理由として瀧子立ち退き求め移転費1500万円裕次郎負担するという条件事態決着したこの後瀧子東京離れ神奈川県秦野市郊外移り住んだ日活企画部社員であった黒須孝治はこの出来事について「プロデューサーと、それで動くスターとの宿命ですよね、これは。それがこの二人にも避けがたく訪れたということでしょう」と評している。また、独立後の裕次郎三船敏郎共演大ヒットした『黒部の太陽』を監督した熊井啓は、瀧子との関係が破綻した後の裕次郎について次のように述べている。 (前略石原プロ現場は強いが映画作り中枢である企画部から出た人で構成されてないから企画失敗いくつもあった。独立してからあまりいい映画作ってないでしょ。これは軍師がいなかったということです。水の江瀧子という軍師がいなかった悲劇ですよ。水の江さんの言っていることは全部当たっているとは限らない、しかし、ある方向見出せ方でしたその中で僕らの才能水の江さんなりに巧みに操作して路線持って行くという軍師でしたから、そういう人が石原プロにいれば、また違った裕ちゃんの作品ができたのではないかと思う。いい企画でね、映画作らしてやりたかったな、という気がします逆に言えば、裕ちゃんが日活時代ずっとやってこれたのは、軍師なり、裏方なりに、そういう精鋭揃っていたっていうことになるんですよ」 1970年7月瀧子は江守清郎の退社追随する形で契約更新せず日活離れた最後プロデュース作品同年7月公開原田芳雄主演の『反逆のメロディーであったが、瀧子当時大阪万博仕事兼務し映画集中できない状況にあり、監督瀧子意図を汲まず不本意な作品だったとしている。 以後テレビ中心に活動し1972年からは『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員1975年10月からは『独占!女の60分』のメインキャスターを、いずれも後述する芸能界引退直前まで務めた。また俳優としては『だいこんの花』(1974年)でテレビドラマ初出演同年には熊井啓監督映画サンダカン八番娼館 望郷』にも出演した最高視聴率23.0%を記録したOh!階段家族!!』(1979-1980年)では「モダンおばあちゃん」役で親しまれた。

※この「裕次郎との確執 - 日活退社」の解説は、「水の江瀧子」の解説の一部です。
「裕次郎との確執 - 日活退社」を含む「水の江瀧子」の記事については、「水の江瀧子」の概要を参照ください。

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