出自と小中学校時代(1869-1886)
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「永井道明」の記事における「出自と小中学校時代(1869-1886)」の解説
明治元年12月18日(グレゴリオ暦:1869年1月30日)、常陸国茨城郡水戸城下の下市蔵前(現・茨城県水戸市城東)にて永井道敏の次男として出生した。永井家は水戸藩士であり、祖父・政介と父・道敏は藩校・弘道館の師範を務めていた。政介は藤田東湖といとこの関係であり、武道の達人であった縁から吉田松陰が訪ねて来てしばらく自宅に滞在させていた。姉の夫は水戸藩士吉成又右衛門の孫慎之允である。こうした「名門」の家柄ながら、道明は兄弟姉妹が10人いたため裕福な生活を送ることはできず、幼少期は虚弱体質であったという。 1876年(明治9年)、下市小学校(現・水戸市立浜田小学校)に入学する。父の那珂郡の大宮警察署への転勤に伴い、1878年(明治11年)に大宮小学校(現・常陸大宮市立大宮小学校)へ転校するが、翌1879年(明治12年)に下市小へ戻り、1882年(明治15年)に卒業した。当時の教育課程ではすでに「体術」・「体操」の名で体育の授業が行われており、道明は鬼ごっこ、竹馬、凧揚げ、こま回し、相撲などをしたと述懐している。特に大宮小時代によくやった竹登りと、水府流の古式泳法を習っていたことから水泳が得意であった。 下市小を卒業した後は、茨城中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)へ進学した。自宅から茨城中までは坂道を含めて約1里(≒3.9 km)ほどあり、これを全速力で駆け抜けて学友や先生を追い越すのが楽しみであり、そうしているうちに心身が鍛錬されたという。茨城中ではジョージ・アダムス・リーランドに師事した星野久成が担当した学校体操に傾倒し、アレイや棍棒を自作して自宅でも鍛錬に励んだ。その甲斐あって、体操の成績は100点満点で、運動会では優等賞を獲得した。他方で1884年(明治17年)に蹴球に熱中するあまり平行棒で頭部を強打し6針縫う怪我を負い、後遺症の疼痛に1897年(明治30年)頃まで悩まされることになった。
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