出自と家庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
フランツ・カフカは、1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにおいて、高級小間物商を営むヘルマン・カフカ(1852年 - 1931年)とその妻ユーリエ(1856年 – 1934年)との間に生まれた。両親は、ともにユダヤ人である。 父ヘルマン・カフカは、南ボヘミアの寒村ヴォセクの畜殺業者ヤーコプ・カフカの息子であった。チェコ語を母語とし、ユダヤ人向けの初等学校でドイツ語を習得したが、後年になってもドイツ語を完全に操ることはできなかった。彼は、ユダヤ社会で成人の1年後にあたる14歳の時に独り立ちし、田舎の行商をしていたが、20歳の時にオーストリア軍に徴兵され、2年間の兵役を勤めた後、都市プラハに移った。1882年、裕福な醸造業者の娘ユーリエ・レーヴィと結婚し、彼女の財産を元手にして小間物商を始めた。 父ヘルマンがチェコ語を母語としていたのに対し、母方のレーヴィ家はドイツ風の慣習に馴染み、ドイツ語を話す同化ユダヤ人であった。レーヴィ家は、ユダヤ社会の名門であり、祖先には学識の高いラビやタルムード学者のほか変人、奇人も多く存在する。カフカは、自分の資質について、父方よりも母方の血に多くを負っていると感じており、日記やメモではもっぱらこの母方の祖先について言及した。母ユーリエ・レーヴィには3人の兄と2人の義弟がおり、長兄アルフレートはスペイン鉄道の支配人となりカフカの最初の就職の手助けをしている(カフカ家では「マドリードの伯父」と呼ばれていた)。上の義弟ジークフリートは、学識と機知に富む変わり者であり、メーレンの田舎町トリーシュで医者をして生活していた。カフカは、この叔父を気に入り、晩年までしばしば叔父のもとを訪れ滞在している。母方の5人の叔父のうち、この2人を含む3人が独身であった。 フランツ・カフカは長男であり、彼が生まれた2年後に次男ゲオルクが、さらに2年後に三男ハインリヒが生まれたが、いずれも幼くして死去している。両親には続いてガブリエル、ヴァリー、オティリーの3人の娘が生まれた。幼いころは妹3人で固まってしまい、また両親はいつも仕事場にいたためカフカは孤独な幼少期を送ったが、晩年に病にかかってからは三女のオティリー(愛称オットラ)と親しくした。カフカ家には他に料理女や乳母が出入りしており、カフカは主に乳母を通じてチェコ語を覚えた。
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出自と家庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 10:11 UTC 版)
祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。1902年(明治35年)、第一高等学校に入学。 父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長となる。朗の妻は櫻井房記の長女である。妹の夫、安倍能成は漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した。叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である。
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