出自と家督継承とは? わかりやすく解説

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出自と家督継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:01 UTC 版)

松平忠頼」の記事における「出自と家督継承」の解説

天正10年1582年)、松平忠吉多劫姫徳川家康異父妹)の間の次男として誕生した多劫姫はもともと忠吉の兄である松平忠正嫁いだ女性で、忠頼にとっては異父兄(従兄でもある)となる家広がいる。忠正の死去時、家広が幼少であったために忠吉家督継いだ経緯があるが、忠頼が生まれた天正10年1582年)に忠吉没し桜井松平家家督は家広が継ぐこととなった徳川家康関東入国すると、家広は武蔵松山1万石の大名となった。 『寛政重修諸家譜』(以後寛政譜』)によれば、病となった家広に代わって襲封したとされるが、時期については記されていない慶長5年1600年)に跡を継いだとする書籍もある)。後述通り慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは忠頼が活動している。 家広は慶長6年1601年6月死去した記録されている。これについて実は自害であり「無嗣のため家が絶えた」とする説があることが『寛政譜』に参考情報として収録されており、その場合家広から忠頼に家督譲られておらず、家広の遺領が忠頼に与えられることで家の継承図られたのであろうとも記されている。こうした事情から、関ケ原の合戦前後家督知行高に関する記事には錯綜見られる

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出自と家督継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:58 UTC 版)

松平忠茂」の記事における「出自と家督継承」の解説

三河松平氏一族東条松平家松平義春右京亮)の次男。父の義春は天文年間松平宗家と共に今川氏服属していた。 父の死後、兄の甚二郎(甚次郎とも)が家督継いだ。しかし、兄は俄かに織田氏味方して今川氏敵対したため、今川義元により天文20年1551年)に甚二郎追放と忠茂の家督継承なされた。忠茂は若年であったため、義元今川氏の属臣・松井忠次左近尉)と山内左衛門尉が忠茂の寄騎として同心すべきこと命じた天文20年12月11日松平甚太郎今川義元判物同年同日松井忠次今川義元判物)。 なおこの時、「本知あいは」(饗庭現在の愛知県西尾市吉良町饗庭)は甚二郎により東条吉良)殿に進上されているので返付を待つように今川氏奉行から指示があり(同年12月2日松平甚太郎宛山田隆景等連署起請文)、これにより本来は東条吉良氏領と推定される吉良饗庭が甚二郎本知主たる知行地本貫の地ともいう)であったことが知れる。そのため、東条松平家は本来、青野松平家とすべきという説が現在有力であるが、この事実からは従来東条松平家という呼称あながち誤謬ではないことがわかる。また、この甚二郎家督継承数えれば忠茂は東条松平家第2代ではなく第3代目にあたる。

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