出自と家督継承
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天正10年(1582年)、松平忠吉と多劫姫(徳川家康異父妹)の間の次男として誕生した。多劫姫はもともと忠吉の兄である松平忠正に嫁いだ女性で、忠頼にとっては異父兄(従兄でもある)となる家広がいる。忠正の死去時、家広が幼少であったために忠吉が家督を継いだ経緯があるが、忠頼が生まれた天正10年(1582年)に忠吉も没し、桜井松平家の家督は家広が継ぐこととなった。徳川家康が関東に入国すると、家広は武蔵松山1万石の大名となった。 『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)によれば、病となった家広に代わって襲封したとされるが、時期については記されていない(慶長5年(1600年)に跡を継いだとする書籍もある)。後述の通り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠頼が活動している。 家広は慶長6年(1601年)6月に死去したと記録されている。これについて実は自害であり「無嗣のため家が絶えた」とする説があることが『寛政譜』に参考情報として収録されており、その場合家広から忠頼に家督は譲られておらず、家広の遺領が忠頼に与えられることで家の継承が図られたのであろうとも記されている。こうした事情から、関ケ原の合戦前後の家督や知行高に関する記事には錯綜が見られる。
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出自と家督継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:58 UTC 版)
三河松平氏の一族・東条松平家の松平義春(右京亮)の次男。父の義春は天文年間、松平宗家と共に今川氏に服属していた。 父の死後、兄の甚二郎(甚次郎とも)が家督を継いだ。しかし、兄は俄かに織田氏に味方して今川氏に敵対したため、今川義元により天文20年(1551年)に甚二郎の追放と忠茂の家督継承がなされた。忠茂は若年であったため、義元は今川氏の属臣・松井忠次(左近尉)と山内助左衛門尉が忠茂の寄騎として同心すべきこと命じた(天文20年12月11日付松平甚太郎宛今川義元判物・同年同日付松井忠次宛今川義元判物)。 なおこの時、「本知あいは」(饗庭、現在の愛知県西尾市吉良町饗庭)は甚二郎により東条(吉良)殿に進上されているので返付を待つように今川氏の奉行から指示があり(同年12月2日松平甚太郎宛山田隆景等連署起請文)、これにより本来は東条吉良氏領と推定される吉良庄饗庭が甚二郎の本知(主たる知行地、本貫の地ともいう)であったことが知れる。そのため、東条松平家は本来、青野松平家とすべきという説が現在有力であるが、この事実からは従来の東条松平家という呼称があながち誤謬ではないことがわかる。また、この甚二郎の家督継承を数えれば忠茂は東条松平家第2代目ではなく、第3代目にあたる。
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