出自と最初の結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:25 UTC 版)
「タマラ・ジェーワ」の記事における「出自と最初の結婚」の解説
サンクトペテルブルクの生まれ。本名はタマラ・ジェヴェルジュエワ(Tamara ZheverzheevaまたはGevergeyeva)といい、父方からタタールとトルコ、母方からはスウェーデンの血筋を引いていた。ジェーワによれば、母親は美人ではあったが利己的な性格で、しばしば不貞を働いていたという。両親が正式に結婚したのは、彼女が6歳になってからのことであった。 彼女の父レフコ・ジェヴェルジェイエフは、帝政ロシア時代にロシア正教会が聖職者の正装で使う金ラメや装飾品などの製造と取引で財をなした人物であった。同時に舞台芸術にも見識を持っており、生涯をかけて集めた劇場に関する資料は、世界でも屈指のものであった。 ジェーワは白い肌に亜麻色の髪と青い瞳のすらりとした美人で、面差しこそスカンディナヴィア系であったが、頬骨と眼もとには東洋系の雰囲気も漂っていたという。彼女は溌剌とした性格であり、舞踊以外にも詩、演劇、音楽、絵画などさまざまな芸術に興味を示していた。 彼女はサンクトペテルブルクでバレエを学び、GATOB(後のキーロフ・バレエ団)に入団した。15歳の頃、彼女は2歳年上のギオルギ・バランチヴァーゼと出会った。当時の彼女は、舞踊学校で夜間のクラスに籍を置いていた。ある晩、社交ダンスの授業のときに「優雅で精悍な青年」が授業に加わった。青年が加わった後の授業は、俄然活気づいたという。ジェーワは青年について「詩人みたいだし、士官みたい」と感想を抱いた。これが彼女と未来の夫、バランチヴァーゼ(バランシン)の初対面であった。 当時、サンクトペテルブルクでは1921年に施行された新経済政策(ネップ)の成果により、小規模なナイトクラブがいくつも開業していた。ジェーワはバランチヴァーゼと一緒に、ナイトクラブで踊る仕事を引き受けるようになった。ジェーワは良い声の持ち主であったため、彼女が歌ってバランチヴァーゼがピアノを演奏することもあり、2人はわずかながらも収入を得ることができた。 バランチヴァーゼがジェーワの家を訪問すると、そのたびに彼女の父レフコから歓待された。ジェーワの家は、ロシア革命が一応の終息を見た後でも芸術家のサロン的存在であり続け、前衛的な芸術家の集う場所になっていた。レフコは当初からバランチヴァーゼの持つ才能と将来性を見抜いていた。バランチヴァーゼがジェーワに会いに来るたび、レフコは彼を居間に招き入れて「娘に会う前にひとつワーグナーを弾いてみたまえ」と勧めるのが常であった。これはレフコがワーグナーの崇拝者だったことに起因したもので、バランチヴァーゼがそれまでワーグナーにあまり接したことがなかったために「再教育」を施そうとしていたためである。ただし、この「再教育」は完全な逆効果で、彼はワーグナーを嫌うようになった。 ジェーワとバランチヴァーゼに結婚の話を持ち出したのは、レフコからであった。ある日、腕を組みながら仕事に出ようとする2人に「お子さんたち、結婚する気はないかね」とレフコが声をかけた。驚く2人に向かってレフコは「時代が時代なら、お前たちに結婚を勧めるのはおろか、許しさえしなかったろうに」と続け、「だが、今はこんなご時世だ。世間に逆らっちゃいかん。さあ-お前たち、どうするんだね」と返答を促した。 ジェーワとバランチヴァーゼは急な話に当惑したものの、結婚に同意した。翌日、2人は役所に婚姻届けを提出し、バランチヴァーゼの希望を取り入れてロシア正教会の結婚式を執り行った。新郎18歳、新婦16歳という幼い夫婦の誕生であった。
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