帝政ロシア時代
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「サッカーロシア代表」の記事における「帝政ロシア時代」の解説
ロシアでは、帝政ロシアの時代に既にナショナルチームが結成されている。1912年ストックホルムオリンピックにおけるサッカー競技がロシア代表初の国際大会であり、この大会でのフィンランド戦(1912年6月30日、1-2でロシアは1回戦敗退)が、ロシア初の国際試合である。 帝政ロシアの時代においては、ロシア代表が9試合行った記録が残っている。帝政ロシアとして最後の試合は1914年12月7日に行われたノルウェー戦で、1-1のドローであった。この後、この地域のナショナルチームの活動は、第一次世界大戦とロシア革命、それに続く混乱のため、ナショナルチームを結成できない状態が続いた。サッカーソビエト連邦代表が新たに編成されるのは1923年を待たなければならない。この1923年から1992年までは「ロシア代表」の名前は消え、この地域を代表するナショナルチームとしてサッカーソビエト連邦代表が編成され国際大会に参加していた。この期間のナショナルチームの活動に関しては、その項目を参照。
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帝政ロシア時代
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カスピ小艦隊は1722年11月、当時の皇帝ピョートル1世の勅令により対ペルシャ(サファヴィー朝)戦に向けてアストラハンで創設された。フョードル・アプラクシン提督指揮下の艦隊は、1722年から1723年にかけてのロシア・ペルシャ戦争で戦勝に貢献した。1796年のガージャール朝とのロシア・ペルシャ戦争でも、1804年から1813年のロシア・ペルシャ戦争でも、カスピ小艦隊はロシア陸軍のバクーやデルベント占領を支えた。 1813年のゴレスターン条約により、カスピ海の航行権がロシアに認められ、カスピ小艦隊がカスピ海唯一の艦隊となった。1867年にカスピ小艦隊の本部はバクーに移った。
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帝政ロシア時代
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バルト海艦隊はスウェーデンとの大北方戦争のさなかの1703年、ピョートル大帝によってフィンランド湾奥のクロンシュタットで編成された。最初の司令官となったのはノルウェー生まれのオランダ人コルネリウス・クルイス(Cornelius Cruys)であり、その指揮下でバルト海海域で大北方戦争を戦った。1714年のハンゲの海戦ではスウェーデン海軍相手に艦隊創設以来初となる勝利をおさめ、大北方戦争でのロシアの戦勝に貢献した。 以後、バルト海艦隊はスウェーデンやプロイセンとの戦争において活躍する。七年戦争ではプロイセン軍とポンメルンや東プロイセンの沖で戦い、第一次ロシア・スウェーデン戦争ではスウェーデン軍と戦ったが、スヴェンスクスンドの海戦で大敗を喫した。その他には露土戦争のために何度も地中海へ出撃したほか、クリミア戦争の際には連合軍のフィンランド湾侵入を防ぐために戦った。この際にバルト海艦隊は機雷を活用して防戦に成功した。これを開発したボリス・ヤコビ(モーリッツ・フォン・ヤコビ)をはじめ、バルト海艦隊には、無線通信を研究したアレクサンドル・ポポフ、水雷艇運用の先駆者であるステパン・マカロフ、航空機を研究したアレクサンドル・モジャイスキーなど、海戦のあり方を変えた数多くの科学者・発明家が在籍した。 黒海沿岸まで領土を広げたロシアは黒海艦隊を創設した。クリミア戦争の結果一度保有を禁じられた後に再保有が認められたが、ロシア艦艇が黒海を出入りすることが認められなくなりバルト海艦隊とは艦艇の入れ替えができなくなった。 クリミア戦争の時点では蒸気船を持たなかったバルト海艦隊は、1860年代に入ると、南北戦争で海軍を強化したアメリカ合衆国から技術を導入してモニター艦を配備した。また造船廠の建設、近代的な軍艦の建造、バルト海沿岸の砲台建設などを推進した。また極東のカムチャツカ半島や沿海州には独自の小艦隊(シベリア小艦隊)があったが、バルト海艦隊からも艦船を抽出して極東に回航させて分艦隊を置き、後の太平洋艦隊の母体となった。 アレクサンドル3世の時期、セルゲイ・ヴィッテらは北極海に面したムルマンスクが不凍港であるため、内海のバルト海でなく大西洋に面したムルマンスクの方に大洋艦隊の基地を建設する構想を提案した。しかし、1894年にアレクサンドル3世が没し、ニコライ2世が皇帝に即位すると、ムルマンスク開発案は却下された。代わりにバルト海艦隊の新たな母港・要塞をフィンランド湾外のリバウ(現・ラトビアのリエパーヤ)に建設することになった。リバウの要塞建設は結局日露戦争がはじまる時点になっても完成しなかった。 一方、満洲へ進出したロシアは旅順を租借して母港・要塞を建設し、太平洋艦隊として分艦隊をさらに増強していった。同じく満洲を狙う日本が海軍拡張を行うと(六六艦隊計画)、それに対抗するためバルト海艦隊の主力艦はほとんど太平洋艦隊に配備され、バルト海に残っているのは新造艦と老朽艦ばかりという状況となった。
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帝政ロシア時代
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「東方問題」、「カルトリ・カヘティ王国」、「1796年ロシアのペルシア遠征(英語版)」、「カフカス総督府 (1801年-1917年)(英語版)」、「ロシア帝国下のグルジア」、および「ロシア第一革命」も参照 18世紀後半、東グルジアではカヘティ王国にエレクレ2世(英語版)が現れ、サファヴィー朝滅亡後のペルシアで興起したアフシャール朝を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国(グルジア王国)を建てた。エレクレ2世はインド在住のアルメニア商人たちと提携して新生王国の殖産興業に尽力したため、グルジア経済はおおいに発展した。1768年から1774年にかけて起こった露土戦争(第1次)ではエレクレはロシア側で戦った。クタイシを首都とする西グルジアのイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世(英語版)治世下の1779年にはオスマン帝国の支配から脱却することに成功した。 エレクレ2世は、1775年、トビリシに神学校を開設した。また、北カフカスのダゲスタンからのレズギン人の襲来やペルシア、トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教を奉ずる北の大国ロシア帝国との同盟をめざした。1783年には女帝エカチェリーナ2世とのあいだにギオルギエフスク条約(英語版)を結び、グルジアの独立と領土保全を保障することを条件にロシア帝国の保護国となることを認めた。同じ年にロシアはクリミア半島を併合しており、これらの動きに反発したトルコとの間で再び露土戦争(第2次)が起こっている。しかし、フランス革命期のロシアは、エカチェリーナが結んだ条約を無視して同盟国となったグルジアを見捨てたため、エレクレ2世は結局、新興カージャール朝の創始者アーガー・モハンマド・シャーの猛攻に単独で立ち向かわなければならなくなった。1795年、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、殖産興業政策の成果は無に帰した。エレクレ2世は失意のなか1798年に没し、後継者のギオルギ12世(英語版)は無条件で王国を「狂人皇帝」と呼ばれたロシアのパーヴェル1世の保護に委ねようとした。病弱なギオルギは在位2年あまりで1800年12月に死去した。 1801年1月8日、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月12日、併合は新帝アレクサンドル1世によって実行にうつされた。ロシア風に「チフリス」と呼ばれるようになったトビリシにはカフカス総督府(英語版)が置かれ、ギオルギエフスク条約の条項にもかかわらず王制存続は無視され、ロシアの軍政長官の支配下に置かれることになった。これに対し、カルトリ・カヘティの各地では人民の叛乱が起こっている。なお、1803年から1815年にかけてはナポレオン戦争の時期にあたり、ロシア帝国もこれに深くかかわったが、アウステルリッツの戦いやフィンランド戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍はグルジア王家の出身である。 カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地の総督府の長以上の権限を有し、ロシア内地同様に県(グベールニヤ)制が布かれ、県知事をはじめとする支配者層にはグルジアやアゼルバイジャン等の現地の有力者の多くがそのまま組み入れられた。グルジアを編入したロシア帝国は19世紀初頭、ザカフカスのよりいっそう強固な支配と「グレートゲーム」とよばれる覇権抗争においてペルシアの背後にあるイギリスへの対抗のため、グルジア軍道を建設した。 ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、かつての3王国は総じて比較的簡単にロシアの一部になってしまったといえる。実際のところ、ここではほとんど流血の事態は生じなかった。ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、シーア派ムスリムの多いアゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した。ロシアではこのころ、デカブリストの乱(1825年)や11月蜂起(1830年)が起こっており、1832年12月10日には、これらに影響を受けたグルジア人貴族がロシア高官の粛正を謀る事件があったが未然に発覚して失敗に終わっている。また、グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱(英語版)が起こった。農民を中心に7,000人もの人が反乱軍に加わったが、ロシア正規軍とこれに同盟したグルジア貴族によって打ち負かされ、多くはシベリアに送られた。 ロシア側からみれば、ザカフカス(南カフカス)よりも北カフカスのチェチェン人・レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が難敵であった。結局ロシアは、北カフカスを戦場とするカフカス戦争(コーカサス戦争)に1816年から1861年まで、実に45年の歳月を費やした。この戦争は皇帝アレクサンドル1世が特別グルジア軍司令官アレクセイ・エルモーロフ(英語版)にカフカス平定作戦開始を承認したことで始まったが、山地民族の側は、ミュリディズムと呼ばれるイスラームの信仰によって結束し、イマームと称される政治的・宗教的指導者によって政治制度が整えられ、ロシア帝国に対するジハード(聖戦)の機運を高めた。グルジアでは、ミングレア(旧サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年、1858年、1867年に最終的に併合され、ロシア帝国の正式な版図となった。 北カフカス征服戦争に対し、グルジアの軍隊と人びとはロシア側で参加した。これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと正教の信仰をともにするというばかりではなく、ロシア統治の積極面を評価する現実主義的な視点をもっていたという指摘がある。実際のところ、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守ることができ、ロシア政府の主導するカフカス地域の再キリスト教化に参与できる点では利益があったのである。ロシア帝国はカフカス戦争終結後、ムスリムの多く居住する中央アジアに転進し、その侵略を本格化させていった。1877年から翌年にかけて起こった露土戦争はロシアの勝利に終わり、その結果、黒海沿岸のポティとバトゥミ、長くオスマン帝国の影響下にあったアジャリアもロシアに併合され、カフカス地域全域がロシア帝国領となった。 ロシアへの併合によってグルジア正教会は1811年、ロシア正教会に吸収され、その組織的独立を失った。グルジア教会のカトリコス(総主教)は廃され、その教区はロシア教会に編入された。ロシアの宗務院に属する大主教が置かれ、「グルジアのエクザルフ(総主教代理)」の職位が設けられた。大主教には当初はグルジア人聖職者が任じられたが、1817年以降はそれもロシア人聖職者によって占められるようになった。これは、非カルケドン主義に立つアルメニア教会とは異なり、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないとみなされたからであったが、教義に相違はなくてもグルジアには非インド・ヨーロッパ語として長い歴史をもつグルジア語の文章語と独特の典礼があり、グルジア人聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛をともなうものであった。グルジア人たちはロシア帝国政府に対し粘り強く教会の独立を要求した。 そうした一方、グルジア貴族の師弟で露都サンクトペテルブルクに留学する者が多くなり、ロシア経由でロマン主義文学の影響を強く受ける者もあらわれた。「グルジア・ロマン主義の父」といわれた詩人アレクサンドレ・チャヴチャヴァゼ(英語版)は帝政ロシアの軍人としても活躍したが、彼はロシアの有名な作家で外交官でもあったアレクサンドル・グリボエードフの義父としても著名である。また、しばしば「グルジアのバイロン」と評されるニコロズ・バラタシビリはその若い死が惜しまれたロマン主義の詩人で、『グルジアの運命』や『ペガサス』は後世に多大な影響をあたえた。 開明的なミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ総督時代の1845年から1854年にかけては、グルジアの商業と貿易が急速に発展した時代であり、チフリス(トビリシ)には劇場なども整備され、都市文化が開花した。また、トビリシはカフカス全体における政治の中心でもあったため、ペルシア、オスマン帝国、フランス、スウェーデン、ベルギーの公館もあった。学芸面では、1850年にロシア帝国地理学協会(1845年創設)がトビリシに支部を設け、現地の知識人や外部からの観察者がそれぞれおびただしい民族誌を著述している。これは、この地域のロシア化を意味する反面、新たな伝統の創出であるとともに近代的なナショナリズムの揺り籠になった。文芸の面でも、『曙』などの文芸誌が登場し、国民文学として新たな展開をみせるようになった。 1861年にロシア皇帝アレクサンドル2世の発した農奴解放令はグルジアにもおよび、それまでさまざまな条件を課されて農奴の状態にあった東部グルジアの農民は1864年に、西部グルジアの農民は1864年から1871年までのあいだに自由の身となり、従来の家父長制的な慣行は近代教育の普及とヨーロッパからもたらされた諸思想によって急速に消え去っていった。 19世紀後半には、イリア・チャヴチャヴァゼ、アカキ・ツェレテリ、そしてヴァジャ・プシャヴェラという、現代ジョージア人(グルジア人)にも「イリア」「アカキ」「ヴァジャ」で親しまれているグルジアの国民的作家が生まれた。東グルジア出身で旧王族のイリアは、読書社会協会を組織し、現代グルジア語の確立と普及にもつとめ、『オタルの未亡人』などの作品を残した。アカキは西グルジアの出身で『バシ・アチュキ』などの作品があるほか、識字運動などをふくむ啓蒙的な諸活動を展開した。山岳地帯のプシャヴィ(英語版)地方出身のヴァジャは、生涯郷里を離れず、方言を用いて貧しい山地の現実と土俗の民俗的世界を繊細な感情で表現したもので、代表作に『客人歓待』がある。 1860年代、トビリシには織物工場が設けられ、1872年、トビリシとポティの間の鉄道が開通した。さらに、バトゥミ・トビリシ・バクーの鉄道も敷設された。これにより、鉱山・工場・農場経営などの諸産業が発展したが、資本の多くはロシア人、アルメニア人、西欧諸国の人びとの掌握するところとなり、グルジア人には恩恵が少なく、多数の農民と都市化・産業化によって新たに形成された労働者階級の多くはこれに不満をいだいた。1883年、トビリシにザカフカス鉄道本部が置かれ、グルジア地域はザカフカス地方の鉄道輸送の要地となった。グルジアには大規模な工場としては鉄道関連のものしかなく、工場法のような労働者保護のための立法もなかったことから、労働環境は劣悪なものであったが、発展期のロシア資本主義の一翼をになう地域として経済的にもロシア帝国に組み込まれていった。なお、1900年の段階ではアゼルバイジャンのバクー油田は世界の石油産出量の半分を占めており、同じ年にバクーとバトゥミを結ぶパイプラインが完成している。 農村にあっても、私有地も約3分の2が地主の所有であり、大経営地はツァーリ(ロシア皇帝)に属し、修道院や教会も大きな領地をもっていた。20世紀初頭にいたっても全農業人口の半数近くが一時的義務負担農民(農奴解放によって土地用益権を得たものの、土地代金の支払いが終えるまで一定の義務を負担しなければならない農民)であり、零細な小作農民が多数を占めた。いっぽう、皇帝アレクサンドル2世の暗殺後は締め付けが強くなり、1881年に即位したアレクサンドル3世は計画的なロシア化政策を打ち出して少数民族の同化政策を強制的に推しすすめたことから都市労働者を中心に強い反発が巻き起こり、知識人中産階級では民族主義に目覚める人が増加した。 グルジアではさまざまなかたちでの民族再興運動が起こった。文学と社会運動を基本とする第1グループ(ピルヴェリ・ダシ(グルジア語版))は作家のイリア・チャヴチャヴァゼやアカキ・ツェレテリ(いずれも上述)、いっそう急進的な第2グループ(メオレ・ダシ(英語版))はギオルギ・ツェレテリ(英語版)など、そして、1892年に活動を開始した社会民主主義を奉ずる第3グループ(メサメ・ダシ(英語版))はロシア社会民主党員のノエ・ジョルダニアやニコライ・チヘイゼらによって、それぞれ指導された。社会民主党はマルクス主義を奉ずる非合法政党であった。1898年からはイオセブ・ジュガシヴィリ(ヨシフ・スターリン)が第3グループに参加した。しかし、ジョルダニヤやチヘイゼが第3グループの主導権を掌握し、彼らの属したメンシェヴィキ(ロシア社会民主党の少数派)がグルジア民族主義の受け皿になると、スターリンはグルジアを離れ、やがてウラジーミル・レーニンと行動をともにするようになった。 19世紀末葉以降は、このような民族主義の高まりに加え、ヨーロッパから新思潮としてもたらされた社会主義の影響で労働運動・農民運動が頻発するようになった。 小説家のニノシヴィリを中心としてマルクス主義の最初のサークルが結成されたのは1892年、西グルジアの炭鉱でのことであった。1894年のニノシヴィリの死去後はジョルダニアがこれを引き継いだ。なお、グルジア語の合法週刊誌『わだち』は1890年代後半以降マルクス主義的な知識人の手によって編集されるようになり、幅広い農村の読者を獲得していた。これは、グルジアではこの時期、合法媒体がグルジア語を用いてマルクス主義の論陣を張ることができたということを意味しており、やがて1902年春のグリアでの農民運動「種まきストライキ」へとつながる動きを準備した。1902年のアジャリアのバトゥミでのストライキや1903年に南ロシア一帯に広がったストライキは社会民主党の指導によるものであった。1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカスの諸都市での労働運動はいっそう組織化を強めた。1903年7月にバクーとオデッサで始まったゼネラル・ストライキはトビリシやバトゥミにも波及している。 1904年2月、日露戦争が始まった。この年の8月から9月にかけて日露間で戦われた遼陽会戦でロシア陸軍が日本陸軍に敗北したことは労働運動・農民運動にも大きな影響をあたえた。1904年末、グルジアではバクーやバトゥミの労働運動と結びついて農民委員会が結成され、広範な騒擾事件とゲリラ戦が展開された。特にグリア地方の農民蜂起は、ツァーリ政府から地域権力を奪い、自治をおこなって地主の所有する農地を占拠し、さらに武装集団を組織するに至ったというもので、その様態は「グリア共和国」と呼ばれるほどであった。「マルクス主義者が指導した世界初の農民反乱」と評されるこの動きは全グルジアに広がり、ここにはかつてのグルジア貴族も参加した。1905年2月18日、グルジアに戒厳令が布告され、ツァーリ政府はグリアの農民代表と交渉したが、地主地の接収や制憲議会の召集などをめぐって意見が一致せず、交渉は決裂し、政府は3月に軍を派遣した。農民蜂起はカザーク兵の鎮圧の前に崩壊した。この動きはさらにロシア中部などへと波及していった。 こうした一連の動きはロシア第一革命(1905年革命)と呼ばれており、1905年の前半期を通じて反政府運動と暴動がロシア帝国全土に広がった。ザカフカスでは、トビリシ、ポティ、クタイシ、バクー、ウラジカフカス、アレクサンドロポリ(現、ギュムリ)でストライキが起こっており、トビリシ、カルス、バクー、ウラジカフカスでは軍部の反乱さえ起こっている。 日露戦争での戦敗はロシア人のみならず、ロシア帝国内の諸民族にも大きな影響をあたえ、これを機に「自由主義者の春」という状況が生まれた。1905年9月17日から22日にかけてはロシア帝国内の革命派によってフランスのパリで反政府党・革命党会議をひらかれ、そこには解放同盟(のちの立憲民主党)やナロードニキの流れを汲む社会革命党(エスエル)、フィンランド民族主義党、ポーランド社会党、ポーランド国民連盟、アルメニア革命連合、ラトビア社会民主同盟など8団体が参加したが、ここにはグルジア革命的社会主義者連邦派党の姿もあった。ツァーリ政府はこうしたなかセルゲイ・ヴィッテが中心となって起草した十月詔書を発し、ドゥーマ(国会)の開設を約束した。 1905年は、西グルジアを除くカフカス全域ではむしろ「民族紛争の年」という様相も呈していた。1906年以降、革命運動は停滞していくが、その間グルジアではメンシェヴィキがいっそう広範な支持を獲得していった。
※この「帝政ロシア時代」の解説は、「グルジアの歴史」の解説の一部です。
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帝政ロシア時代
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「親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)」の記事における「帝政ロシア時代」の解説
※詳細はロシア帝国親衛隊を参照。 1690年代に、ピョートル大帝により、ロシア皇帝親衛部隊(лейб-гвардия)が創設された。20世紀の初めには、親衛部隊は13個歩兵連隊、4個狙撃兵連隊、14個騎兵連隊及び他の部隊から構成され、1918年に廃止された。
※この「帝政ロシア時代」の解説は、「親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)」の解説の一部です。
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