六六艦隊とは? わかりやすく解説

六六艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)

大日本帝国海軍の歴史」の記事における「六六艦隊」の解説

詳細は「六六艦隊計画」を参照 日清戦争には勝利したものの、三国干渉屈したことは日本国力の不足を痛感させるものであった1896年海軍大臣再任した西郷従道は、同年戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻を中心とする『海軍拡張計画』を提案議会承認得た翌年には装甲巡洋艦2隻が追加され、すでに建造であった富士型戦艦2隻を合わせて戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊が実現することとなった1896年度より1905年度までの10ヵ年計画予算総額2億1,310万円という莫大なもので、全軍事費3億1,324万円の7割弱が海軍回された。この計画就役したのは、敷島型戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻(浅間型2隻、八雲吾妻出雲型2隻)に加え防護巡洋艦6隻、通報艦1隻、砲艦3隻、駆逐艦23隻、水雷艇63であった戦艦全てイギリス製、装甲巡洋艦全て外国製イギリス製4隻、ドイツ・フランス各1隻)であったが、防護巡洋艦の内3隻は国産であった。また駆逐艦新し艦種であったこともあり16隻がイギリスであった大型艦艇にはバー&ストラウド社製の測距儀搭載されており、測的盤・照準望遠鏡合わせて使用することにより正確な射撃が可能となった1904年12月20日には 『連合艦隊艦砲射撃教範』が出されている。装薬には日清戦争時の黒色火薬代えて英国製の無煙火薬使用され炸薬は純粋ピクリン酸である下瀬火薬信管鋭敏な伊集院信管採用された。また、日清戦争直後マルコーニ実用的な無線通信発明すると、海軍はこれに興味持って研究進め1901年には三四無線機1903年には三六式無線機採用して大型艦から順次搭載開始し日本海海戦時には駆逐艦上の艦艇搭載されていた。 1903年12月28日には、常備艦隊解散され戦艦6隻(12500-15000トン、30.5 cm主砲4門)を中心とした第一艦隊装甲巡洋艦6隻(10000トン弱、20.3 cm主砲4門)を中心とした第二艦隊、これらを統合する連合艦隊編成された。連合艦隊司令長官には東郷平八郎中将任命された。さらに日清戦争時の主力艦からなる第三艦隊1904年3月には連合艦隊編入された。日本海軍駆逐艦上の兵力合計50隻、総トン数233,000トンであった対すロシア太平洋艦隊合計57193,000トンであり、主力旅順戦艦7隻及び装甲巡洋艦1隻、ウラジオストク装甲巡洋艦3隻であった。但し、戦艦の内2隻は25.4cm搭載艦であり、残る5隻の30.5 cm搭載艦敷島型戦艦より2000-3000トン小型であったまた、ウラジオストク装甲巡洋艦日本海軍のものより大型ではあったが、4門の20.3 cm主砲砲塔ではなく砲郭搭載されていた。

※この「六六艦隊」の解説は、「大日本帝国海軍の歴史」の解説の一部です。
「六六艦隊」を含む「大日本帝国海軍の歴史」の記事については、「大日本帝国海軍の歴史」の概要を参照ください。

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