六六艦隊
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「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「六六艦隊」の解説
詳細は「六六艦隊計画」を参照 日清戦争には勝利したものの、三国干渉に屈したことは日本の国力の不足を痛感させるものであった。1896年に海軍大臣に再任した西郷従道は、同年に戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻を中心とする『海軍拡張計画』を提案、議会の承認を得た。翌年には装甲巡洋艦2隻が追加され、すでに建造中であった富士型戦艦2隻を合わせて、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊が実現することとなった。1896年度より1905年度までの10ヵ年計画、予算総額2億1,310万円という莫大なもので、全軍事費3億1,324万円の7割弱が海軍に回された。この計画で就役したのは、敷島型戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻(浅間型2隻、八雲、吾妻、出雲型2隻)に加え、防護巡洋艦6隻、通報艦1隻、砲艦3隻、駆逐艦23隻、水雷艇63隻であった。戦艦は全てイギリス製、装甲巡洋艦も全て外国製(イギリス製4隻、ドイツ・フランス各1隻)であったが、防護巡洋艦の内3隻は国産であった。また駆逐艦は新しい艦種であったこともあり16隻がイギリス製であった。 大型艦艇にはバー&ストラウド社製の測距儀が搭載されており、測的盤・照準望遠鏡と合わせて使用することにより正確な射撃が可能となった。1904年12月20日には 『連合艦隊艦砲射撃教範』が出されている。装薬には日清戦争時の黒色火薬に代えて英国製の無煙火薬が使用され、炸薬は純粋ピクリン酸である下瀬火薬、信管は鋭敏な伊集院信管が採用された。また、日清戦争直後にマルコーニが実用的な無線通信を発明すると、海軍はこれに興味を持って研究を進め、1901年には三四式無線機、1903年には三六式無線機を採用して大型艦から順次搭載を開始し、日本海海戦時には駆逐艦以上の全艦艇に搭載されていた。 1903年12月28日には、常備艦隊が解散され、戦艦6隻(12500-15000トン、30.5 cm主砲4門)を中心とした第一艦隊と装甲巡洋艦6隻(10000トン弱、20.3 cm主砲4門)を中心とした第二艦隊、これらを統合する連合艦隊が編成された。連合艦隊司令長官には東郷平八郎中将が任命された。さらに日清戦争時の主力艦からなる第三艦隊も1904年3月には連合艦隊に編入された。日本海軍の駆逐艦以上の総兵力は合計50隻、総トン数233,000トンであった。 対するロシア太平洋艦隊は合計57隻193,000トンであり、主力は旅順の戦艦7隻及び装甲巡洋艦1隻、ウラジオストクの装甲巡洋艦3隻であった。但し、戦艦の内2隻は25.4cm搭載艦であり、残る5隻の30.5 cm搭載艦も敷島型戦艦より2000-3000トン小型であった。また、ウラジオストクの装甲巡洋艦は日本海軍のものより大型ではあったが、4門の20.3 cm主砲は砲塔ではなく砲郭に搭載されていた。
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