六分一殿と明徳の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:33 UTC 版)
時氏から惣領を継いだ長男の山名師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。 師義の後は病弱だった嫡男の義幸でなく、師義の5弟の山名時義が惣領となり時義の後は山名時煕が継承した。 この時煕の惣領継承には、師義の3男の山名満幸が、強い不満を持っていた。1390年(元中7年・明徳元年)、将軍・足利義満の命により満幸と氏清(満幸の義父で叔父)が時煕を攻め但馬国外へ追放した。 しかし1391年(元中8年・明徳2年)、時煕を許すという将軍義満の変心に対し満幸は、氏清・義理の両叔父と共に幕府に対して挙兵(明徳の乱)、同元中8年・明徳2年12月には山名軍が室町幕府のある京都へ攻め入ったが、最終的には幕府軍の反撃にあって満幸は逃亡、後に捕えられて処刑、氏清も戦死、義理は出家して没落した。 戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時熙の但馬守護職、氏之(満幸の兄)の伯耆守護職、氏家(氏冬の子)の因幡守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減少させた。 山名氏の惣領は時煕に戻り、師義の嫡男・山名義幸および嫡孫・師幸は伯耆国日野郡で山名日野家として続く。
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