総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/26 05:00 UTC 版)
「ジョン・ハンター (海軍軍人)」の記事における「総督時代」の解説
ハンターの苦難はシドニーに着く前から始まっていた。1793年、総督任期の終わりにフィリップがオーストラリアを去って、その後2年間軍の支配下にあったのだ。総督代理のフランシス・グロース(英語版)は囚人たちを無慈悲に自分のことでこき使い、ラム酒の取引が大々的に生じていた。この取引に関わった官僚たちは、それで大儲けをしていた。彼らは法廷を支配しており、土地、税関倉庫そして受刑者の労働の管理を手中にしていた。ハンターは、これらの権力を文民行政に戻さなければならないとさとったが、これは難しかった。そしてジョン・マッカーサーは、商業利権を情け容赦なく守るためにハンターと敵対していた。ハンターは自分が実質孤立無援であることに気付いた。仮により権力のある人物が、士官を逮捕して家に帰したとしても、仮にハンターがそうしたとしても、ハンターは恐らくウィリアム・ブライの時代に起きたラム酒の反乱のような反乱を既にこの時代に引き起こしたかもしれない。ハンターの家にまで何通もの匿名の手紙が来て、当局はハンターを、彼が阻止しようと努力している反乱に加担したかどで告発した。ハンターは自分への告発に激しく抗弁したにもかかわらず、1799年11月5日にポートランド公爵は公文書を送ってハンターを召喚した。公爵は3人の護国卿の一人だった。ハンターは1800年4月20日に、公爵に公文書を受け取ったことを知らせ、同年9月28日に、植民地政府をフィリップ・ギドリー・キングに引き渡してイギリスへ戻った。母国に戻ったハンターは、政府高官に自分が潔白であることを示そうと努力したが、なんらその機会を与えられなかった。ハンターは自らの言い分を長い冊子にまとめざるをえなくなった。これは1802年に出版され、『ハンター総督によるニューサウスウェールズ常設軍の経費の大元への批評 この経費の削減と経費乱用に打ち勝つための心得』(Governor Hunter's Remarks on the Causes of the Colonial Expense of the Establishment of New South Wales. Hints for the Reduction of Such Expense and for Reforming the Prevailing Abuses)という見出しがつけられた。これは初期のオーストラリア史にとって価値のある文献となった。 ハンターは勇敢で善良な官僚であったが、彼がおかれた環境は、彼が完璧な総督であることを困難にさせた。彼の後継者のキングが語ってように、ハンターの指揮は「非常に高潔な意図に導かれて」いた。そして、「支援や情報や、アドバイスを求めていた人々に最も屈辱的な形で騙されていたと思われる」。オーストラリア滞在中にハンターは「たとえ大きな心の平穏を得ていたとしても、また刑務所で時を過ごしたとしても、同じくらいの慰めを得ることができた」ハンターは探検やシドニー近郊の土地の開拓ではいい仕事をしたし、また、マシュー・フリンダースやジョージ・バスの探検も奨励した。ハンターはオーストラリアを去ってからも、この植民地への興味を持ち続け、冊子中にほのめかされた改革には大きな価値があった。1798年にヨーロッパ人によって初めてカモノハシが発見され、その毛皮とスケッチを本国に送ったのもハンターだった。
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