第一回無総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 06:41 UTC 版)
詳細は「nl:First Stadtholderless Period」を参照 1650年にウィレム2世が急死すると、総督派勢力は瓦解した。そこでビッカー家出身のヨハン・デ・ウィットがホラント州議会の法律顧問として国政をリードした。オラニエ=ナッサウ家と総督派の親英仏・嫌西路線は機軸でなくなり、商業とくに海上航行の自由という州主権の確立が至上命題となった。そしてついにアムステルダム銀行とシティ・オブ・ロンドン間の商戦は第一次・二次英蘭戦争に発展した。この時代レヘントの中には、オランダ東インド会社・オランダ西インド会社および土地・公債へ資本を投下して、本業より政治に没頭する者が現れるようになった。 デ・フラーフ家のコルネリスが1664年に死んだのを機会に、カルヴァン主義のヒリス・ファルケニール(英語版、オランダ語版)が中間派に台頭した。最初デ・ウィットら議会派と協力したが、ウィレム3世が総督派を結集して勢いを増すと、ヒリスは離反してウィレムを支持した。1672年にデ・ウィットが失脚してウィレムが総督になった。ウィレムがアムステルダム市政の要職に取り巻きの総督派を就けようとすると、ファルケニールはこれを妨害した。しかしファルケニールが1680年に死んで、後釜のニコラス・ウィッツェン(英語版、オランダ語版)とヨアネス・フッデ(英語版、オランダ語版)は闘争せずに妥協した。1690年以降は市政を牛耳るヨアン・コルファ(オランダ語版)がウィレムに追従した。
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