第一回航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:05 UTC 版)
「サン・ファン・バウティスタ号」の記事における「第一回航海」の解説
1613年10月28日(慶長18年9月15日)、サン・ファン・バウティスタ号は当時ノビスパン(新イスパニア)と呼ばれていたメキシコのアカプルコを目指して、月浦から出航した。『伊達治家記録』には、船の乗員は180名余りで、これに加えて商人がいたと記されている。使節団員で名前が出てくるのが支倉常長を含めて12名で、これとは別に向井忠勝配下の幕府関係者10名ほど、南蛮人40名ほどが船に乗っていたという。また、日本以外の記録によれば、ノビスパンで洗礼を受けた日本人は78名で、常長と共にヨーロッパに渡った随員は40名ほどだったとされる。 航海にはアンドレス・デ・ウルダネータが1565年に開拓しマニラ・ガレオンが用いていたウルダネータの航路が使われた。サンフランシスコ号乗組員だった船長ベニト・デ・パラシオ、水先案内人ロレンソ・パスケスらのイスパニア人航海士や水夫が操船を行い、日本人水夫等はその下働きで操船術を体験した。船は北太平洋海流に乗って東進し、12月26日に北アメリカのメンドシノ岬(北緯40度26分サンフランシスコの北方300キロメートル)を視認し、ここからカリフォルニア海流に乗って南下し、1614年1月25日(慶長18年12月16日)、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。当時はパナマ運河がないため、支倉とソテロは陸路でメキシコ市を経由して大西洋側に移動して別船にてヨーロッパへ向かった。 サン・ファン・バウティスタ号の到来はスペイン側に歓迎されたわけではなかった。これについてソテロは、日本とノビスパンの直接貿易が行われた場合、ルソン(フィリピン)で活動しているスペイン商人の独占的権益が脅かされるから、日本人使節団は歓迎されなかったとする。サン・ファン・バウティスタ号は許可なく入港したことを理由に長い間、抑留された。日本側は日本への帰港を強く要請し、ノビスパンはこれを1614年12月に認めたが、日本人には航海に関わらないよう求め、スペイン人乗組員には必ずルソン経由でノビスパンに戻るように厳命し、もし違反した場合は死刑に処すとも宣告した。こうした経過を経て、サン・ファン・バウティスタ号は1615年4月(慶長20年4月)に、スペイン国王使節として贈答品を携えたディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父やサンフランシスコ派修道士らを乗せて出港した。船はマニラ・ガレオンが用いていた北赤道海流に乗ってフィリピン東方に達し、ここから黒潮に乗って北上して1615年8月15日(慶長20年閏6月21日)に3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
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