第一回順拝バス
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第一回順拝バス運行の経緯は、『伊予鉄順拝バス五十年史』に詳しく書かれている。同書を参考にして、ここではその概略を記すこととする。 順拝バス運行が検討された昭和20年代の時代背景として、伊予鉄道では1951年(昭和26年)に一番町・道後の営業所で一般貸切旅客自動車運送業を開始していたほか、子会社の四国日野ヂーゼル販売株式会社内に伊予観光社を設立していて、観光業務に進出する環境が整っていた。 四国遍路の行程はおよそ1,400キロメートルにおよび、徒歩で全行程を回った場合には約90日を要する。1920年代ごろからは四国においても交通網の整備が進み、汽船や汽車、馬車などの交通手段が遍路の移動手段としても取り入れられ、いわゆる「モダン遍路」が生じたが、それでも全行程におおよそ30日程度は要していたようである。このような状況において、貸切自動車での八十八ヶ所巡礼を発案したのが、永野浩営業係長(のちの伊予鉄道第12代社長)と橋本衛係係員であった。計画は1952年(昭和27年)に本格化し、遍路の紹介本などを基に地形図上に朱線を引いてコースの策定が行われた。ただし運行前に実際のコースを試走するといったことは行われなかった。日程は13泊14日、参加費用は1人13,600円と決定され、運行開始に備えて日野自動車のボンネットバスが新車として導入された。 募集に対しては24人の参加者が集まり、加えて運転士・添乗員の4人が乗務した。出発日の1953年(昭和28年)4月26日には伊予鉄道本社で壮行会が開かれ、この際にバスの前で参加者らが並んで撮られた記念写真が残されている。以降の行程は概ね以下の表に示した通りである。勿論基本的には貸切バスでの巡礼であるが、ところによっては渡し船やケーブルカーなどバス以外の交通手段も利用している。また、道路の未整備のために、バスを降りて徒歩で山を上る場面も少なくはなかった。65番三角寺では、困難な道中に参加者が音を上げ、住職の説法でなんとか旅行が継続される場面もあったという。宿泊地への到着は連日夜遅くになり、8日目は宿泊を予定していた室戸に到達できず、手前の牟岐に宿泊することとなった。9日目に相談がもたれた結果、当初の予定より1日延ばして14泊15日とすることが決定された。そして15日目の5月10日に、51番石手寺で結願となった。結願後は道後公園内の湯月荘で解散式が行われた。 第一回順拝バスの後、4ヶ年は15泊16日で行程が組まれていたが、1957年(昭和32年)には14泊15日となり、以降順次日程が短縮され、1978年(昭和53年)以降は11泊12日となって現在に至る。
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