総督板垣退助の復姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 04:03 UTC 版)
「甲州勝沼の戦い」の記事における「総督板垣退助の復姓」の解説
山内容堂は当初、鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し土佐藩士の参戦を制止したが、薩土討幕の密約に基づいて初戦から参戦した者が数多くおり、追討の勅が下った後は、もはや勤皇に尽すべしと意を決した。京都で在京の土佐藩士と合流した迅衝隊は、部隊を再編し軍事に精通した乾退助を大隊司令兼総督とする。退助はさらに朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、2月14日京都を出発し東山道を進軍した。この京都を出発した日が乾退助の12代前の先祖・板垣信方の320年目の命日にあたる為、天領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具定等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
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