総督府・軍部への協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:56 UTC 版)
1920年代から朝鮮では朝鮮産米増殖計画が進められていたが、1929年(昭和4年)から内地での米の価格下落が問題視され、朝鮮米の内地への移入制限が議論されるようになると、韓をはじめとする財界人は反発し、内地の各界へのロビー活動を行い鎮静化を図ったことで、問題は放置された。 1935年9月18日に開かれた「朝鮮実業倶楽部」総会で組織再編が行われ、朝鮮人中心であった役員に日本人が多く入るようになった他、時局講演会や奨学事業などを担うようになり、総督府から朝鮮社会の安定を指導する機関として期待された。 1927年(昭和2年)に朝鮮総督府中枢院参議に任命され、1934年(昭和9年)には朝鮮国防飛行機献納会顧問を兼任。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると関東軍顧問に任命され、朝鮮軍に国防献金を行っている。1938年(昭和13年)には国民精神総動員朝鮮連盟取締役兼国民精神総動員京畿道連盟参与に任命された。1939年(昭和14年)には朝鮮生命社長に昇進し、官選京畿道会議員に選ばれている。その後、朝鮮放送協会放送審議会委員、同常務理事、朝鮮総督府中枢院顧問、朝鮮総督府物価調査委員などを兼任し、1943年11月には国民総力朝鮮連盟事務総長に任命された。この背景には、総督府からの信頼が厚い韓を事務総長に就けることで、朝鮮人の自発的な戦争協力を促すためであり、このような戦争遂行への協力が評価され、1945年(昭和20年)4月3日に貴族院議員に勅選された。同年7月には朝鮮国民義勇隊顧問に就任。1946年7月4日、資格消滅となり貴族院議員を退任した。
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