総督就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:17 UTC 版)
「ウィリアム・シャーリー」の記事における「総督就任まで」の解説
ウィリアム・シャーリーは、父ウィリアムと母エリザベス・ゴッドマンの息子として、1694年12月2日に、イングランド王国のイーストサセックスにある、プレストンマナーで誕生した。ケンブリッジ大学のペンブルック・カレッジで学び、その後ロンドンのインナー・テンプルで法曹の仕事に携わった。1717年に祖父が亡くなり、オートホール(Ote Hall)と共に相続したいくつかの基金で、ロンドンでの書記の職を購入した。同じころフランシス・ベイカーと結婚し、多くの子供が生まれた。1720年には法廷弁護士としてのでの訓練を受けた 。シャーリーが相続した遺産の額は、かなりのものであったが(約1万ポンド)、ぜいたくな生活を送ったため、1721年の不景気では蓄えが底をついた。8人の子を持つ大家族でもあり、シャーリーは、北アメリカの植民地に職を得る必要に迫られた。結婚によって、トマス・ペラム=ホールズと縁故関係になっており、このペラム=ホルズがシャーリーのその後の生活を後押ししてくれた。ペラム=ホルズその他による紹介状を武器に、1731年にシャーリーはボストンに着いた。 ボストン到着直後に就いた仕事は、検査官の仕事と、ニューイングランドでの勅選弁護士の仕事だった。1741年には、マサチューセッツとロードアイランドの境界論争に関わる委員の職に就いた。この時期は、議論好きの総督ジョナサン・ベルシャーの任期の終盤で、シャーリーはベルシャーの後任となることを企み、推薦してもらえるよう、ベルシャーの反対派と組んで目的を達成した。シャーリーの代理として、イギリスで働く妻の助けを得て、1741年、ニューイングランド勢力の反ベルシャー派は、ベルシャーの解任と、シャーリーの総督就任とに組織的に動いた。総督としての始めの仕事である、議会で審議中の経済政策に影響力を持つことと、周囲を説得して自分への本俸を承諾させることとは、いずれも失敗に終わった。
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