総督委員会、イギリス支配に対する反対
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「ジェイムズ・ボーディン」の記事における「総督委員会、イギリス支配に対する反対」の解説
ボーディンは1753年に植民地議会議員に選出され、1756年には総督委員会委員に指名された。当初はイギリス本国から指名される総督を支持していたが、イギリスの植民地政策が次第に不人気になるにつれて、それはニューイングランドの経済に否定的な効果しか与えないと考え、その政治姿勢は急進的となった。その見解の変化には個人的な要素も大きく影響した。地元税関支配人であり、ボーディンの義理の息子であるジョン・テンプルが、1760年代に総督フランシス・バーナードとの不快な論争に巻き込まれていた。1769年までに、総督委員会で総督に反対する主要な代弁者の1人になっていた。同年、バーナードはボーディンを再度委員に選出することを拒否した。しかし、ボーディンはバーナードを総督から失脚させる推進者だった。バーナードが書いていた植民地政府を批判する私的文書が1769年に出版されて、大いに怒りを買った。ボーディンはバーナードの文書に挙げられた告発や主張に反論し、バーナードの辞職を要求する高度に論争を呼ぶような小冊子を出版し、それが植民地担当大臣のヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルに送られた。 1770年、ボーディンは植民地議会議員に再選され、同年にバーナードが植民地を去ってから間もなく総督委員会委員にも再選された。総督代行のトマス・ハッチンソンもボーディンの総督委員会復帰を黙認し、下院で批判をさせておくよりもそこに居た方が危険性が少ないと見ていた。しかし、ボーディンが明けた下院の議席は総督にとってもう一人の指導的政敵であるサミュエル・アダムズが奪い、ハッチンソンは両面で反対の先鋒と対峙することになった。 1770年3月5日に起きたボストン虐殺事件の後、ボーディンはボストンのタウンミーティングからこの事件を調査する委員会委員に選ばれた。この委員会は宣誓供述を取って事件を詳述する報告書を作成し、『恐ろしい虐殺の要約した叙述』と題して出版した。この作品は総督ばかりでなく、ボストンに駐屯するイギリス軍の軍隊の挙動も大いに批判していた。歴史家のフランシス・ウォレットは、植民地の世論に影響を与える大きな宣伝作品の1つと特徴づけた。イギリスの政策に対するボーディンの反対は、ハッチンソンの政権でも継続し、ハッチンソンの手紙が公開されたときは、バーナードの手紙事件と同様な激怒を買い、ボーディンは再度総督を大いに批判する作品を書き、総督の辞任を要求した。ハッチンソンの後継者トマス・ゲイジ将軍は、1774年にボーディンが総督委員会委員に選ばれたときにこれに拒否権を使い、「陛下からの命令に従い」彼を委員会から排除すると表明した。
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