総督アンドロス
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「ジョセフ・ダドリー」の記事における「総督アンドロス」の解説
1686年の12月に総督アンドロスが到着し、直ちに仕事に取り掛かった。ダドリーは評議員の一員であり、上級司法裁判所の裁判官であり、また、出版物の検閲官でもあった。そして、ニューイングランド自治領全域にそれぞれ存在する法体系を、調整するための委員会にも属していた。 評議会は、自治領に編入された地域すべての代表であると考えられていたが、議員の移動が困難を伴い、また、立て替えられた旅費の精算がきちんと行なわれなかったため、議会はボストンとプリマスの議員が支配していた。多くの住民は、ダドリーとランドルフが、アンドロスの「暴政」の中核を担っていると思っていた。裁判官としてのダドリーは、この上なく厳しい批判と苦情に晒された。特に、アンドロスから強要された税法、タウンミーティング法、そして土地の権利絡みの法を施行した時の批判は大きかった。 1688年の名誉革命の知らせがマサチューセッツに届くと、1689年にはボストン暴動が起き、4月にアンドロスは逮捕された。ダドリーはその時ボストン市外にいたが、戻って来たところを逮捕された。ダドリーはこの時体調を崩しており、1,000ポンドの保釈金を払って逮捕を免除され、家に戻ったが、暴徒たちが家まで押し掛けて来て、彼を監獄へ連れ戻した。ダドリーは監獄で10箇月過ごした。この監獄生活は、一つは彼の身の安全の為でもあった。その後ウィリアム3世の命令により、アンドロスや他の自治領の幹部たちと共にイングランドに召喚された。植民地当局は、アンドロスとダドリーを起訴したが、ロンドンの代理人たちは、誰も告訴を取り仕切る態勢になかったため、代理人たちは解任され、2人は釈放された。ダドリーは、この告訴に対して準備した弁明を商務院に披露し、自分には本国の方針による指示に従う意欲と能力があることを訴えた。 ダドリーは、人脈が限られていたためロンドンで孤立しており、ブラスワイトに援助を願い出た。また、同僚のダニエル・コックスにも、新しい職を世話してもらうよう頼んだ。コックスはウエストジャージーの地主で、ダドリーをそこの副総督にと考えた。これらの、また他の人脈をたどって、ダドリーは、最終的にニューヨークの新総督ヘンリー・スルーターに、植民地議会の議長として推薦され、1691年にその任に就いた。議会の仕事に加え、ニューヨークのインディアンとも交渉し、裁判長としてジェイコブ・ライスラーに判決を下した。ライスラーは、アンドロスの副総督だったフランシス・ニコルソンを解任に追い込んだ1689年のライスラーの反乱の首魁であった。この裁判は物議をかもし、ダドリーは裁判長として多くの敵を作った。ライスラーは大逆罪の判決を受け、死刑を宣告された。総督のスルーターは、当初は、ライスラーとその義理の息子ジェイコブ・ミルボーンの即急な死刑執行に反対し、国王の決裁を待った方が良いと考えていた。しかし、議会で反ライスラー勢力からの圧力がかけられると、スローターは考えを変え、1691年5月16日に両名の死刑が執行された。コットン・マザーは、ダドリーが影響力を行使してライスラーの死刑執行を推進したと主張したが、反ライスラーの議員であったニコラス・ベイヤードの証言はこれを反駁するものとなっている。 1692年、ダドリーはニューヨークを発って、ロクスベリーの自宅に戻り、自らの政友、たとえばウィリアム・ストウトンのような人物とのよりを取り戻した。ストウトンはこの時、マサチューセッツ湾直轄植民地の新総督、サー・ウィリアム・フィップスのもとで副総督に任命されていた。
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