監獄生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 08:34 UTC 版)
ところが、1919年12月ごろ、急に経験のため監獄へ入獄したいという考えが浮かび、何度かいじめられていた古参兵に反抗し、外出禁止日に公用と偽って外出し、そのことを咎めた一等看護長の体罰に抗して帯剣を抜くなど行動に及んだ。事態はそれ以上に発展しなかったが、翌日から重営倉入りとなった。 なお、営倉の中では凍傷を防ぐために、跳んだりはねたりしたことを「朝鮮侵略反対踊り」「天皇の命に従うこと能わずダンス」「植民地主義絶対反対舞踊」「おお、われらに天の自由を与えよ……民主主義万歳おどり」と名付けたといもいわれる。 1920年(大正9年)1月27日、軍法会議において、1上官侮辱、2兵器使用上官暴抗、3哨令違反の罪状で禁固2か年の判決を受け、竜山衛戍監獄に収監の後に小倉衛戍監獄へ送られた。 軍監獄の実情は彼の手記によって明らかになっており、一例として寝食時にも常に直立不動を余儀なくされたり、「偶数時間には安座、奇数時間には正座させられたともいわれる。叔の行動を「反戦のための闘争」や「『治安出動』を拒否した日本人兵士」ととらえる 向きもあり、また梶村秀樹は「この時点で、自分の存在を賭けて植民地支配を否定し、三・一運動の心を理解しようとした日本人は永井叔ただ一人である」としている。
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