収監、『告白』、流刑
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「ミハイル・バクーニン」の記事における「収監、『告白』、流刑」の解説
バクーニンは政治犯の収容所として知られるペトロパヴロフスク要塞に移送された。監獄生活に入ったバクーニンのもとを皇帝ニコライ1世の使者オルロフ伯爵が訪れ、告白書の提出を求めた。バクーニンを精神的にもロシア国家の支配下に置こうという意図であった。バクーニンは、自身の活動は既に知られており今更明るみに出す秘密もないと告白書に記し、他の活動家たちの名前を挙げることを頑なに拒否した。 手紙を読んだニコライ1世は「気概のある見上げた男だが、危険人物だ。監視を怠ってはならない」と評した。この『告白』はロシア帝国の記録文書として保管されていたものであり、内容は議論の余地を大いに残すものだが、ロシア文学の文脈において位置づけられることがある。 バクーニンはペトロパヴロフスク要塞の地下牢に三年間幽閉されたのち、シュリッセリブルクの監獄で4年を過ごす。まともな食事の取れるような環境ではなく、バクーニンは壊血病にかかり、全ての歯が抜け落ちてしまったという。バクーニンはのちに、ギリシア神話のプロメーテウスを思い起こすことで心の慰めとしていたとこの頃を振り返っている。あまりに過酷な状況下での監禁生活が続き、兄弟に毒薬の差し入れを懇願するほどであった。 ニコライ1世の死後に皇位を継いだアレクサンドル2世は、恩赦名簿からバクーニンの名を削除した。しかし1857年2月、バクーニンの母親による請願が聞き入れられて処刑は回避、西シベリアの都市トムスクへの終身流刑となった。トムスクに到着して一年のうちに、ポーランド人の商人の娘で、バクーニンにフランス語を教わっていた女性、アントニア・クヴャトコフスカと結婚した。1858年8月、バクーニンのはとこに当たるムラヴィヨフ伯爵が彼のもとを訪れる。ムラヴィヨフは10年前から東シベリア州の総督をつとめていた。 ムラヴィヨフはリベラルな気質で、親戚筋のバクーニンに非常に好感を抱いた。1859年春、ムラヴィヨフからアムール開発事業局の仕事を紹介されたバクーニンは妻とともに東シベリアの中心都市イルクーツクへ移り、ムラヴィヨフの治める植民事業の拠点である同地イルクーツクを活動の中心とする政治サークルの一員となった。サンクトペテルブルクの官僚政治がシベリアを不満分子の追放先として利用していたこともあり、バクーニンは中央政府側の入植地に対する扱いに憤慨した。「シベリア合州国」の樹立が提案されたが、これはシベリア地域がロシア帝国から独立してシベリア・アメリカ連合を形成しようという構想で、アメリカ独立の例にならったものである。この政治サークルには、ムラヴィヨフの若き部下にしてクロポトキンの縁者であり、ゲルツェンの著作集を所持していた参謀長のクーケリをはじめ、書簡の送受のため自分の住所をバクーニンに貸した民政長官のイズヴォルスキー、ムラヴィヨフの副官でのちの総督アレクサンドル・ドンデュコフ=コルサコフ将軍などが所属していた。 ゲルツェンが『コーロコル』誌でムラヴィヨフを批判した時、バクーニンは自身の後見人であるムラヴィヨフを真摯に擁護した。バクーニンはシベリアでの外商業務に嫌気がさしつつあったが、ムラヴィヨフのお陰で閑職とはいえほとんど働かずに年2千ルーブルの収入を得ることができていたのである。だがムラヴィヨフは総督の任を追われることになる。理由としては彼が自由主義的思想の持ち主であったこと、そしてシベリア独立運動を起こすおそれがあると判断されたことなどが挙げられる。コルサコフがその任を継いだが、彼はシベリアの流刑者に対して更に同情的であったとも考えられている。コルサコフの従姉妹はバクーニンの兄弟パヴェルと結婚しており、彼もまたバクーニンの縁者であった。コルサコフはバクーニンの要望に応じ、川が凍結する時期はイルクーツクに戻るという条件付きで、アムール川および支流を通航する全船舶への乗船許可証を発行した。
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