収監と公判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:02 UTC 版)
「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の記事における「収監と公判」の解説
ブラウン達捕虜は武器庫の事務所に拘束された。10月18日、バージニア州知事ヘンリー・A・ワイズ、州上院議員ジェイムズ・M・メイソンおよびオハイオ州の下院議員クレメント・バランディアムがハーパーズ・フェリーに到着した。メイソンはブラウンを3時間にわたって尋問した。 この攻撃は連邦政府の財産の中で起こったが、ワイズはバージニアで裁判にかけることを命じた(おそらくは、連邦政府の圧力を回避するため、あるいは可能性は小さいが大統領の恩赦を避けるためであった)。医者がブラウンを診察して公判に耐えられると宣言し、公判は10月27日に始まった。ブラウンの罪状は4人の白人と1人の黒人の殺害、奴隷に対する反乱の教唆、およびバージニア州に対する反逆罪であった。ジョージ・ホイトを含む弁護団がブラウンに付けられたが、10月31日に最終弁論を行ったのはハイラム・グリスウォルドであった。グリスウォルドは、ブラウンが忠誠心を負わないバージニア州に対する反逆罪では無罪である、ブラウンは自分では誰も殺していない、また襲撃の失敗はブラウンが奴隷を唆した訳ではないことを示していると弁護した。アンドリュー・ハンターが検察側の最終反論を行った。 11月2日、1週間の公判と45分間の評議の後で、チャールズタウン裁判所はブラウンは3つの罪状すべてに有罪と判決を下した。ブラウンは12月2日に公衆の面前で絞首刑に処せられることになった。この判決に反応したエマーソンは、「ジョン・ブラウンは絞首台を十字架のように栄光有るものにする」と述べた。フランシス・H・スミス将軍とトマス・J・ジャクソン少佐(2年足らず後に「石壁」と渾名をつけられた)の指揮でバージニア士官学校の士官候補生が、ブラウンの支持者が救出に来た時のために護衛に就くことになった。 私が認めるやり方、また公平に正しかったと認めるやり方で私が干渉をしたのならば(というのもこの公判で証言した目撃者の大半が真実に溢れ誠実であったことを賞賛する)、富める者、権力のある者、知性のある者、いわゆる偉人のために、あるいはその友人、父親、母親、兄弟姉妹、妻や子供などのために、私が干渉をし、苦しみ、この干渉したことで得たことを犠牲にするならば、それはすべて結構なことだ。この法廷にいるあらゆる者が罰よりも報奨に値すると思うことだろう。この法廷は、私が想像するところでは、神の法の正当性を認めている。私は聖書、少なくとも新約聖書と思われるこの接吻した本を見ている。これはあの男達が私にすべきことは何でも、私が彼らにそのようにすべきと教えている。さらに、「縛られている者はその者を縛ってもいることを覚えておけ」と教えている。私は敢えてこの教えに従って行動した。私は未だに若すぎて神がえこひいきする人であることを理解できない。私がした干渉と言うことは、神が嫌う貧乏のために私がしたと常に自由に認めることと同じく間違ってはおらず、いや正しかったと信じている。さて、正義の目指すところを増長させるために私の命を奪うことが必要ならば、また私の血と、私の子供の血を混ぜ、さらに邪悪で残酷で不正な法制のもとでその権利が軽視されているこの奴隷の国の何百万という血を混ぜることが必要と考えられるならば、私は従おう。実行していただきましょう! — 有罪判決後に法廷で行われたジョン・ブラウンの発言の抜粋、ジョン・ブラウンの最後の言葉、1859年11月2日] ブラウンは監獄に入っている間に書簡の往復を許された。ブラウンは、監獄になんとか忍び込んできた、カンザス時代以来の友人シラス・ソウルのブラウンを救出しようという申し出を断った。ブラウンは殉教者として死ぬ用意ができていると言ったので、シラスはそのままにした。さらに重要なことは、ブラウンの多くの手紙が高い調子の精神性と信念を発しており、北部の新聞で取り上げられた時は、北部の支持者の数を増やす一方で南部の多くの者を激高させた。ブラウンは囚人であったかもしれないが、1859年の最後の四半期は疑いもなく国民の話題の的になった。12月1日、ブラウンの妻が最後の食事を共にした。彼女は最後の夜を共に過ごす許可は拒み、試練を前にしてブラウンが取り乱したりしないように配慮した。
※この「収監と公判」の解説は、「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の解説の一部です。
「収監と公判」を含む「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の記事については、「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の概要を参照ください。
- 収監と公判のページへのリンク