収監経験者
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姜哲煥(1977年-1987年 収監):1968年、平壌生まれ。家族が日本(京都府)から北朝鮮に帰還したが政治的に信頼できないと考えられ、9歳の子供でありながら投獄された。 安赫(1987年-1989年 収監):1968年生まれ。北朝鮮を不法に出国したとされ、18歳で投獄された。姜哲煥とともに逃亡。 金英順(キム・ヨンスン、1970年-1979年 収監):1937年、満洲国奉天生まれ。崔承喜のもとで舞踊を習ったエリート・ダンサーであった。1967年に崔承喜が粛清されたからも踊り続けたが、1970年、突如耀徳強制収容所に収監された。理由は親友であった成蕙琳が金正日の愛人であることを知ってしまったからであった。彼女の両親は収容所内で餓死した。釈放ののち、底辺の生活を19年間送り、2001年に中国に脱出。息子のうち1人は耀徳で若いうちに亡くし、もう1人は1989年に中国へ逃れようとして銃殺され、残る1人は最終的に逃亡に成功するまで何度も捕らえられた。 李英国(1995年-1999年 収監):金正日の元ボディーガード。北朝鮮を不法に離れ、同国を批判したため、中国で誘拐され、投獄された。 キム・テジン(1988年–1992年 収監)は、スパイ容疑で投獄された。 中国で18ヶ月間不法に過ごしたとされ、その間キリスト教に改宗したのち収監された。収容所では、その規則で3人以上の集会を禁止しているので、彼は他の宗教囚との会合を開こうとした際、拷問を受けたことを証言した。 キム・ウンチョル(2000年-2003年 収監)は、北朝鮮を不法に出国したため、19歳で投獄された。彼はロシアから送還された7人の難民グループの一員であった。国際連合は彼らに難民の地位を与えたが、彼らを守ることができなかった。 申淑子とその娘、呉恵媛・呉圭媛(1987年- 収監):申は1942年、韓国生まれ。1976年生まれの恵媛と1978年生の圭媛はドイツ(旧西ドイツ)生まれ。申の夫で2人の娘の父である呉吉男が一家でドイツから北朝鮮に移ったが、そこでは工作活動に従事させられ、さらにヨーロッパで韓国人拉致を命じられた。申は、自分たちはともかく新しい被害者を生み出してはいけないと夫に逃亡を勧めた。呉がデンマークに亡命したのち、申は娘たちとともに収容所に送還された。姜哲煥と安赫は申は自殺を何回か試みたが、彼らが解放された時点では生きていたと証言した。申淑子はアムネスティ・インターナショナルによって「良心の囚人」と命名され、救助のための運動が展開された。2011年9月の韓国紙『朝鮮日報』によれば、韓国の情報機関が数十人の韓国人と日本の拉致被害者が平安南道平原郡元和里(院和里)に移動させられた可能性が高く、そのなかに申淑子の一家も含まれると報道した。また、体力の衰えた申淑子がこの地にある朝鮮労働党幹部用病院で治療を受けているという情報があることも報じている。
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