百科全書派の世俗主義
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「百科全書派の世俗主義」の解説
「百科全書」および「百科全書派」も参照 啓蒙主義は、「啓蒙の時代」と対置するところの「暗黒の時代」をゴシック的な事物や聖職者の狂信的姿勢とに結びつけ、これを批判した。フィロゾーフ(哲学者)を自称していた啓蒙主義哲学の人々は理性を武器としたが、必ずしも理性がすべてであると信じるような合理主義者ではなかったし、かといって感情・信仰・直観・権威などを前にして判断を停止してしまうような非合理主義者でもなかった。啓蒙主義哲学の人々は何よりも「批判者」であったし、彼らがもっとも心に期したのは真の「人間科学」を追究することであった。思想運動としての啓蒙主義が批判したのは、17世紀に強化されたキリスト教信仰と王権神授説にもとづく専制政治であり、権威への盲従や無批判な伝統墨守、迷信や無知、不寛容なども批判の対象とした。 フィロゾーフのなかでドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールの2人は、1751年から1772年まで『百科全書』の監修と編纂にたずさわった。『百科全書』は啓蒙思想の精神をもっとも広く普及させた書物であり、項目の執筆者としては監修者自身を含めて150人以上の人々がこれに参加した。執筆に参加したフィロゾーフは「百科全書派」と呼ばれている。『百科全書』は、婉曲な形式ではあるがキリスト教と教会を批判して寛容を唱え、フランス産業振興のために経済活動の自由を訴えるなど、啓蒙主義の主な主張が盛り込まれている。 当初、ディドロは理神論の立場にあったが、壮年期には神の存在を全面的に否定する徹底した無神論の立場に立ち、その著作のために監獄生活を送った経験をもつ思想家である。ディドロは唯物論の先駆的存在で、政治的にはヴォルテール同様に啓蒙専制主義の支持者であった。ダランベールは『百科全書』の「序文」において、新しい時代にはその必要にふさわしい新しい思考方法が必要であると説き、学芸の復活、理念の再生、理性と「良き趣味」への回帰を読者に呼びかけた。フィロゾーフたちは、古代の再発見によってこれから新たなる黄金時代が訪れるものと確信していたのである。ただし、ダランベール自身は途中で監修から手を引き、その後はディドロのみが監修にたずさわった。 ドイツ出身のポール=アンリ・ティリ・ドルバックも百科全書派における無神論者として知られ、宗教的な圧政から人類を解放することを目指した。ドルバックによれば、宗教とは「科学の幼稚な先行者」にすぎず、未開の精神の持ち主こそが霊魂と天使、悪魔と魔女などの幻想を信じるのであり、円熟した理性はそうしたものは一切存在しないと唱えた。存在するものすべてが自然であり、その自然も科学法則によって規則正しく運動する物体の物質的な体系だと、ドルバックは主張した。『精神論』を著したクロード=アドリアン・エルヴェシウスも無神論者であり、同書は反カトリック的であるとしてパリ大司教ボーモンから弾劾を受けた。 このように、フィロゾーフには確かに無神論者もいたが、そのほとんどはキリスト教徒でもなく無神論者でもない「理神論」の立場に立っており、その多くは世俗化された絶対王政を支持して現実の社会秩序と政治秩序を認めたうえでの改革主義者であった。百科全書派のなかでも過激な立場にあった数学者のニコラ・ド・コンドルセは、自分たちフィロゾーフが「真理の発見ではなく、真理を広める」ことに関心をいだく集団だと述べている。ここにおいて宗教から解放された真理の存在が主張され、それを普及させて人々を解放することが目標とされる。ここで、宗教を社会から排除しようとする戦闘的な世俗主義が出現したのである。 ドゥニ・ディドロ(1713年-1784年) ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717年-1783年) クロード=アドリアン・エルヴェシウス(1715年-1771年) ポール=アンリ・ティリ・ドルバック(1723年-1789年) ニコラ・ド・コンドルセ(1743年-1794年)
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