ボストン到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:52 UTC 版)
1711年の6月の始め、フランシス・ニコルソンはボストンに着いた。遠征の詳細や計画、入植地の提督との会見などが、コネチカットのニューロンドンで進められた。 海軍の遠征艦隊は、ニューイングランド入植地で育成された民兵を、同行させる予定であり、一方ニコルソンは、植民地軍をコネチカットからペンシルベニアへ、ハドソン川を上らせ、シャンプラン湖に出て、モントリオールへ陸路送り込むつもりだった。海軍に同行する植民地軍は、1710年にノバスコシアの総督となったサムエル・ベッチの指揮下にあった。1500人から成るこの部隊はほとんどがマサチューセッツの兵で、それにニューハンプシャーやロードアイランド植民地の分遣隊が一緒だった。 艦隊は6月24日にボストンに着いた。艦隊はノドル島(現在のローガン国際空港のあたり)に上陸した。歴史家のサムエル・アダムズ・ドレークによれば「イギリス国旗の下で大西洋を渡った人数としては、恐るべき大人数」だった。 艦隊が食糧が足りないまま出港したため、担当者は、ボストンで十分に積み込むものと期待されていた。しかも、兵員の数が当時のボストンのそれを上回っており、食糧補給はやる気をなくしてしまうような仕事だった。商人が法外な値段で取引するのは禁じられていたが、結局十分な食糧は得られた。 他に、職務をせずに艦隊を離れている者を、入植者が見つけた場合には罰する法律も出来ていた。どうやらこの遠征軍は、入植地の住民にいろいろと注目される存在であった。ボストンに滞在した5週間の間、このことが持つ意味は大きかった。 遠征隊の逗留中、ウォーカーは、セントローレンス川の航路に通じた案内役を同行させようと考えていた。しかし誰も名乗り出ず、ウォーカーはひどくうろたえた。艦長で、ヌーベルフランス入植地の情報に精通しているといわれるシプリアン・サウサックでさえも、セントローレンス川の河口から向こうには入ったことがないと口にしていた。 ウォーカーは、プリマスを出航する前に、艦隊に同行させたフランス人に頼ってみることを考えた。しかしながらベッチは、そのフランス人を全く信用しておらず、このように書いていた。「愚かなだけでなく、うそつきで、怠け者で、飲んだくれである」しかし、そのフランス人に訊くよりほかに「いい方法が見つからなかった」 ウォーカーは、拿捕したフランスのスループ船の船長であるパラディに金を握らせて、案内役を依頼していたともいわれている。 ウォーカーが集めた海図は、セントローレンス川河口の詳細な情報が明らかに不足していた。それはサー・ウィリアム・フィップスが、1690年のケベック遠征の際につけていた航海日誌さながらだった。ウォーカーもこの日誌については知っており、フィップスの遠征に参加した人物とも何人か会ったが、彼らの雲をつかむような話では、あの川の何に、どう気をつけておけばいいのか、その懸念はまるで晴らされなかった。 心配のあまり、ウォーカーは、艦隊の中でも最も大きく、重い艦の1隻で、しかも70門艦のエドガー(英語版)に巡行の命令を出し、自らの提督旗を立てさせた。
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