ボストン王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:17 UTC 版)
「ラリー・ジークフリード」の記事における「ボストン王朝」の解説
お試し期間である1963-64シーズンは31試合、平均8.4分の出場で3.3得点の成績に終わったが、セルティックスはこのシーズンもNBAファイナルを制し、ジークフリードはルーキーイヤーから優勝を経験した。 2年目の1964-65シーズンに入り、NBAの水にも慣れたジークフリードは、王朝チームで徐々に存在感を示していくようになる。3年目の1965-66シーズンには完全にローテーション入りを果たし、平均13.7得点まで数字を伸ばし、さらにこのシーズンに記録したフリースロー成功率88.1%はリーグ1位にランクされた。 この期間にセルティックスは連覇記録をさらに8まで伸ばし、王朝の名をほしいままにするが、ジークフリードは2人のジョーンズのバックアップとして、またセルティックスの強さを支える強力ディフェンスを構成する選手の一人として、優勝に大きく貢献するようになっていた。特に粘り強いディフェンスは高い評価を得、そのディフェンスはまるで相手に「彼のTシャツを着ているようだ」と錯覚させるほどだった 1965-66シーズンにセルティックスは9回目の、ジークフリードにとっては3回目の優勝を遂げるが、シーズン終了後にセルティックスは変革の時を迎えた。レッド・アワーバックがコーチを辞し、後任にビル・ラッセルが選手兼任のまま就任。新体制で迎えた1966-67シーズン、セルティックスは60勝21敗と八連覇時代に何ら引けを取らない成績を収めるが、プレーオフではフィラデルフィア・76ersの前に破れ、ついに連覇記録が途絶えた。 このシーズンを最後にセルティックスのプレイメーカーだったK.C.ジョーンズが引退。この事はチーム内でのジークフリードの価値を飛躍的に高め、1967-68シーズンにはアシスト数を大きく伸ばし、チームトップとなる平均4.7アシストを記録。セルティックスも変革の時期を乗り切り、見事に王座に返り咲いた。さらに翌1968-69シーズンにはジークフリードはキャリアハイとなる14.2得点4.7アシスト、2度目のリーグ1位となるフリースロー成功率86.4%を記録した。セルティックスはこの年のファイナルも制し、優勝回数を11回に伸ばし、ジークフリードも5つ目のチャンピオンリングを手に入れた。 しかしこの年にビル・ラッセルとサム・ジョーンズが引退し、ボストン王朝は今度こそ終焉の時を迎えた。セルティックスは世代交代を進めるべく、1970年のエクスパンション・ドラフトではジークフリードをプロテクトせず、ジークフリードのサンディエゴ・ロケッツ移籍が決まった。 30代に入り、次第に衰え始めたジークフリードはラストシーズンをロケッツから移籍したアトランタ・ホークスで過ごした。NBA通算成績は9シーズン550試合の出場で、5,960得点1,950アシスト、平均10.8得点3.5アシスト、フリースロー成功率85.4%だった。
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